榛名神社

群馬県内に見える「三国志」を巡った「第2回 北関東三国志ツアー」を2019年7月28日(日)に敢行した。そのレポートをいくつかの頁に分けて記したい。ツアーの概要については以下のまとめを参照されたい。

 

第2回北関東三国志ツアー - Togetter

 

「北関東三国志ツアー」1ヶ所目。

 

赤城山妙義山とともに「上毛三山」の1つに数えられ、古くより山岳信仰を受けてきた榛名山群馬県高崎市)。その榛名山の南中腹に位置するのが榛名神社である。創建は6世紀末と伝えられ、火産霊神と埴山毘売神を祀る。

 

榛名神社公式サイト|榛名神社へようこそ

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榛名神社山門

 

榛名神社の境内は榛名川に沿って南北におよそ500メートルにわたって、山門や三重塔、社、堂などの多くの建物や、神楽殿そして社殿を有する。

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榛名神社の「三国志」は本殿の少し手前に位置する「双龍門」に見える。榛名神社の由緒および、双龍門の概要は次の通りである。

当社は第三十一代用明天皇丙午元年(一三〇〇余年前)の創祀で延喜式内社である。徳川時代の末期に至る迄神仏習合の時代が続き満行宮榛名寺などと称され画て上野寛永寺に属し、明治初年神仏分離の改革によって榛名神社として独立した。

 

双龍門

竣工は安政二年(一八五五)。間口十尺、奥行九尺。総欅造。四枚の扉にはそれぞれ丸く文様化された龍の彫刻が施されていることから双龍門と呼ばれるようになった。羽目板の両面には「三国志」にちなんだ絵が彫られており、天井の上り龍、下り龍とともに双龍門の風格を高めている。棟梁群馬郡富岡村清水和泉、彫刻武蔵熊谷宿長谷川源太郎*1、天井の龍は高崎藩士矢島群芳の筆。

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この双龍門は北東から南西に構える入母屋造りの四脚門で、控柱~門柱、門柱~控柱の羽目板に2枚1組の彫刻が施されている。北西部外側には「桃園結義」(左:天を仰ぐ劉備、右:関羽張飛)、内側には「三顧茅廬」(左:劉備と彼を迎える童子諸葛亮、右:関羽張飛)が、また南東部外側は「趙雲救幼主」(左:趙雲を追う曹操軍、右:劉禅を抱く趙雲)、内側には「張飛大鬧長坂橋」(左:大喝する張飛、右:逃げる曹操軍)をそれぞれ配する。

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天を仰ぐ劉備劉備を見る関羽張飛

 

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長坂橋にて大喝する張飛とその表情

 

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劉禅を抱き単騎駆けする趙雲

 

これらの彫刻はいずれも地上から150cm以上の高さに位置している。かつては彩色がされていたと思われるが、経年のためかほとんどの塗料が剥落しまっており、例えば人物の目など部分的に当時の色が残っている。また双龍門自体が本殿へ通じる参道上にあるため、年間を通して非常に多くの参拝者が間近くを通行する。文化財保護の観点からかは不明であるが、彫刻を保護するように目の細かい金網で覆われている。そのため撮影しようにもピントが彫刻ではなく、金網にあってしまいデジカメでは綺麗に写真を撮ることができなかった。幸いなことにスマートフォンのレンズが金網よりも小さかったため、接写することで細部を撮影することが叶った。文明の利器と技術の素晴らしさと恩恵をここで改めて痛感した。

 

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撮影時の様子

 

これらの彫刻を有する双龍門は先述したように、熊谷出身の彫刻師・長谷川源太郎(一般に熊谷源太郎と呼ばれる)の作である。彼は47歳の時に熊谷から越後へ拠点を移すが、「越後のミケランジェロ」と称される石川雲蝶と並び、社寺彫刻の名手として新潟でも高く評価されたそうである。長谷川源太郎の作品と伝えられているものは、この双龍門のほかに曹洞宗赤城山 西福寺(新潟県伊米ヶ崎町)や上野国総社神社(群馬県前橋市元総社町)、御島石部神社(新潟県柏崎市西山町)などの寺社において、今日でも彼の彫刻を見ることが出来る。

 

少しハプニングもあったが、30分以上もの時間をかけて双龍門の彫刻をゆっくりと鑑賞することができた。そこを行き交う参拝者の方々から、かなり痛い視線が肌に刺さりまくっていたと感じるほど、間違いなく「不審者」をしていたと思う。

細部まで丁寧に作りこまれているこれほど大きな彫刻を間近で見れる機会はほとんどない。加えて題材が三国志ということもあり、三国志が好きな方にとってはたまらない隠れた三国志スポットだと思う。

 

榛名神社は2017年より本殿をはじめとする社殿の修復工事が現在行われており、2020年は双龍門の修復工事が着手が計画される。来年はこれらの彫刻を鑑賞することができなくなるため、もし行こうと考えられている方は注意していただきたい。

 

〒370-3341 群馬県高崎市榛名山町849

*1:1799~1861

井上文昌「関羽正装図」

とある方より情報をいただいたので記事に。

この場を借りて御礼申し上げます。この度は大変貴重な情報を誠にありがとうございます!

 

今回は北海道石狩市三国志スポットについてです。

 

以前より国内の寺院や道観等において祀られる関帝像について調査している。それを調べるに伴い三国志(正確には三国志演義の一場面)を題材にした絵馬の数々が神社や寺院等に奉納されていたり、また彫刻が社殿等に施されているということを知り、関帝調査の副産物として何故か次々に絵馬の情報が見つかった。そのためそれらの情報をマッピングした「神社仏閣に見える「三国志」」を作成していた。

 

 

 

タイトルに記したように、幸運なことに石狩弁天社(北海道石狩市弁天町22-8)に納められている井上文昌「関羽正装図」(以下、「関羽図」とする)に関する情報をいただいた。以前より存在は知ってはいたが、1つの絵馬を見るために北海道へはさすがに行けない。そのこともあり今回教えていただけたことが非常にありがたい限りである。今回はその絵馬について見ていきたい。

 

石狩弁天社の由緒は次の通りである。

石狩弁天社

 この神社は元禄7年(1694年)、松前藩の山下伴右衛門の願いによって建てられました。建てられた目的は、石狩場所の主産物、鮭の大漁と石狩に出入りする船の安全を祈るためです。中心となる神様は弁財天(弁天様)です。弁天社は石狩場所に関係した役人や場所請負人によって信仰され、とくに村山家では守り神として大切にしました。主神のほか、稲荷大明神をはじめ多くの神々がまつられていますが、石狩川の主であるチョウザメと亀を神にした「妙亀法鮫大明神(みょうきほうこうだいみょうじん)」*1は鮭漁の神としていまも信仰されています。建物の内外には本州から運ばれ奉納された御神燈、絵馬などが残り、蝦夷地第一の勢さんを誇った石狩場所の繁栄を示しています。

 

例の「関羽図」は本殿に納められており、祭壇に向かって左手に掲げられる。本殿内の様子やその他の絵馬については以下の記事に詳しく記されているため、もし興味があるかたはこちらを参照されたい。

 「関羽図」はの大きさは縦がおよそ2mほどもあるケヤキ材の巨大絵馬である。金色の下地の上に、青龍刀を提げる関羽と、彼に寄りそう赤兎馬が彩色豊に、かつ額いっぱいに描かれる。関羽は「面如重棗、脣若塗脂、丹鳳眼、臥蠶眉」と、演義の記述をそのまま再現したかと思うほど丁寧に表されている。

絵馬の左上部には「安政三年丙辰孟秋/応需而謹写/文昌丙士(落款)」と銘が見える。

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さて石狩弁財社ではこの「関羽図」を以下のように説明する。

関羽正装図』

銘文 安政三年丙辰孟秋 応需而謹写 文昌丙士

 

由来

 この絵は中国の三国志に出てくる英雄『関羽』で井上文昌が描いたものである。文昌は越後の人で画を谷文晃に学んだ。

 『関羽』は中国では武の神、また信義を重んじたことから商売繁盛の神、このほか、学問の神として信仰されている。日本では水戸光圀足利尊氏が信仰していた。 以上

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日焼けなのか、汚れなのか、塗りつぶしたのか定かではないが、非常に気になる跡が説明板に見える…内容から考えると近年作成されたものであろうか。この記述に拠れば、越後出身の井上文昌(1818~1863)が安政三年(1856)に、つまり38歳の時に描いたようである。越後で三国志と言えば、「越後のミケランジェロ」と評される石川雲蝶が作成した曹洞宗萬年山 曹源寺の「三国志、唐人馬上の図」木彫だろうか。やはり越後の人物と三国志は何か縁がある気がしてならない。

閑話休題。なぜ越後の人物が描いた絵馬がここに奉納されているのだろうか。調べた限り、今回は残念ながらその手掛かりを得ることはできなかった。井上文昌は当時かなりの名を馳せていた絵師だったのだろうか。

 

さて、個人的に目を引かれたのはこの絵馬の説明文の後半部である。関羽が死後、「関帝」として祀られるようになった事は江戸時代でも認識されていたかと思うが、「足利尊氏が信仰していた」と尊氏についても僅かではあるが触れられている。まさか北海道の社で尊氏の信仰についてこのような記述があることに非常に驚かされた。

今日、尊氏が関羽を信仰したという情報は広く知られておらず、1.地誌の記録、2.大興寺の伝承、3.研究論文、4.一般書(例えば狩野直禎『「三国志」の知恵』講談社現代新書など)程度しか見ることが出来ない。

この説明板が作成された時期や、また何をもとにしてこのような一文を記したのか気になるばかりである。

 

この「関羽図」のように、全国各地の寺社に関羽はもちろん、三国志を題材にした多種多様な絵馬が奉納されている。尊氏の信仰に関する伝承や情報が見える可能性は極めて低いと思うが否めない。ひょんなところでとんでもないモノが見つかることがあるのが、フィールドワークの醍醐味のひとつでもあるので、今後寺社を巡る際はより注視したい。

*1:通称「サメ様」

張松について

毎月東京都港区の三国軒にて開催されている「三国志義兄弟の宴」。その第51回目の宴が2019年9月15日(日)に開催される。今回のテーマはまさかの張松!彼にスポットが当たるなんて思いもしなかった…

 

張松については「劉備の入蜀する前後のストーリーで活躍する人物」という程度でしか認識しておらず、これまで一度も掘り下げて考えたことがなかったこともあり、張松についてより理解を深めるために、また宴の予習として以下に記していきたい。

 

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張松劉備の入蜀の際に活躍した人物で、身体的にかなり個性的な特徴を有している。近年では「おそ松くん」に登場するイヤミを彷彿させるようなビジュアルで描かれることが増えてきている。さて張松について演義の次の一文が簡潔に表されている。訳は立間祥介『三国志演義』を参照にした。

劉璋視之。出進言者。益州成都人也。官帯益州別駕。姓張、名松、字永年。其人生得額钁頭尖,鼻偃齒露,身短不滿五尺,言語有若銅鐘。

演義』嘉靖本第119回「張永年反難楊脩」】

 

卻說那進計於劉璋者,乃益州別駕,姓張,名松,字永年。其人生得額钁頭尖,鼻偃齒露,身短不滿五尺,言語有若銅鐘。

【『演義』毛本第60回「張永年反難楊脩 龐士元議取西蜀」】

 

この時劉璋に献策したのは、益州の別駕、姓は張、名は松、字は永年である。この人、生まれつき顔が出て頭はとがり、鼻はひしゃげて歯が反りかえり、身長は五尺に満たず、声は銅の鐘のようであった。

 

史書における張松を見よう。『後漢書』では「劉焉袁術呂布列傳」、また『正史三國志』においては蜀書では「劉焉傳子璋」「先主傳」「法正傳」「黃權傳」「馬忠傳」、呉書では「吳主傳」に彼の名が見える。記述を統括すると1.対張魯の策として劉璋張松曹操のもとへ遣わすが、2.劉璋曹操ではなく劉備を頼ることを勧め、3.劉備に入蜀の手引きを行った、という。

 

張松の身体的描写については陳寿の本文ではなく、先主傳が引く『益部耆舊雜記』に触れられる。この箇所が「孟徳新書」のくだりのネタになったのであろう。

張肅有威儀,容貌甚偉。松為人短小,放蕩不治節操,然識達精果,有才幹。劉璋遣詣曹公,曹公不甚禮松;主簿楊脩深器之,白公辟松,公不納。脩以公所撰兵書示松,松飲宴之間一看便闇誦。脩以此益異之。

【『三國志』蜀書巻二「先主傳」引『益部耆舊雜記』

 

張松の兄の)張粛には威儀があり、容貌は甚だ雄偉であった。張松はひととなりは短小で、放蕩にして節操を治めず、しかし見識に達して果断であり、才幹があった。劉璋が遣って曹操に詣らせた処、曹操は甚だしくは礼遇しなかった。曹操の主簿楊脩が深くこれを器重し、曹操張松を辟すよう白したが、曹操は納れなかった。楊脩は曹操が撰述した兵書を張松に示した処、張松は宴飲の間に一たび看てたちまち闇誦した。楊脩はこれによって益々これを異とした。

 

正史では張松は「身長が低いく、性格には難がある」とする。演義にあるように「額钁頭尖」「鼻偃齒露」「言語有若銅鐘」ということではなさそうだ。記されていない=特筆すべき点ではないということもあるので、張松は平均的な容貌をしていたのではないだろうか。

 

さて演義に記述があり、正史にはない記述されていないことがもう一点ある。それは字である。演義では「永年」とあるが、正史にはそれが見えない。某百科事典やwebページに拠れば出典が明記されず「字は子喬、演義では永年」と記載されている。前者はどこに拠る情報なのか。

 

東晋の永和十一年(355)に常璩によって編纂された『華陽國志』附「益梁寧三州先漢以來士女目録」に次の記述が見えた。

 安南將軍張表字伯逺

成都人伯父肅廣漢太守兄松字子喬州牧劉璋别駕從事

 

安南将軍 張表 字は伯逺

成都の人。伯父張肅は肅廣漢太守。その兄は張松、字は子喬で州牧の劉璋别駕從事。

張松の字は「子喬」で、本貫は演義と同じく蜀郡成都県である。『演義』から張松を知り、加えて横山『三国志』をはじめとする三国志作品でも張松の字は永年で表記されていたため、そうだと思い疑ってこなかった。「益徳」「翼徳」と同様に歴史上では「子喬」、演義では「永年」とゆらぐことについて頭の片隅に入れておきたい次第である。

伝足利直義画「三国志」について

三国志ニュースの2019年8月13日(火)付の記事において、「足利直義筆(滋賀県米原市 清瀧寺徳源院)」と題する記事が更新された。タイトルの割には記事のほとんどが個人の日記的な記述が占めており、残念ながら肝心の「三国志」画に関してはたった数行程度しか、しかも漠然としか触れられていなかった。その記事の補足として以下に「三国志」画について記したい。

 

足利直義筆(滋賀県米原市 清瀧寺徳源院) - 三国志ニュース

 

 滋賀県米原市に所在する天台宗霊通山 清瀧寺徳源院(以下「徳源院」とする)は鎌倉時代から江戸時代まで栄え、北近江を支配した京極氏の菩提寺である。京極家初代の京極氏信が弘安六年(1283)に草創。境内には本堂、位牌殿、三重塔などを有する。その位牌堂に「足利直義画(尊氏の弟)三国志室町時代)」という手書きのプレートとともに、3人の人物が描かれた「三国志」画が公開されている。

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足利直義足利尊氏の異母弟で、徳治元年頃(1306?)から文和元年(1352)にかけて活躍した人物である。亀田先生の『観応の擾乱』(中公新書)が世間的に大流行していることもあり、その名前に聞き覚えがある方も多いのではないだろうか。この時代は演義がまだ成立しておらず、「三国志」といえばまだ正史しか将来していない時代である。

 

閑話休題。画の右下には幘を被り、赤ら顔でつり目の人物が、中央部には白い面の烏帽子のようなものを頂く人物が、そして左下には浅黒い顔で丸く大きな眼が特徴的な人物が描かれる。右下の人物の特徴より、これは関羽の持つ容姿と一致することから関羽と比定する。また関羽と共に描かれることがあり、上述の特徴を持つ人物と言えば劉備、そして張飛に限定されよう。よってこの「三国志」画は劉備関羽張飛を題材に描かれていると考える。

 

また画の右脇には「自笑齊藤原直義 畫」の署名と、その下に2つの落款(いずれも解読不明)が捺されている。徳源院 位牌堂の所蔵品のページにおいて「足利直義筆」という一文とともに画像が掲載されているが、厳密に言えば「筆」ではなく「足利直義画」もしくは「藤原直義 畫」である。

徳源院 位牌堂

 

足利直義は源姓であるが、藤原姓ではない。加えて「自笑斎」と号した記録が見つかっておらず、足利直義が作品時代がそもそも発見されていない。仮にこの「三国志」画が足利直義が描いたものとするならば、署名の後に落款ではなく花押が続くのではないだろうか。この画は南北朝期ではなくかなり後の時代に。直感的に江戸時代の作風のように見える。ではこの藤原直義という人物が足利直義ではないとするならば、一体は何者なのだろうか。

 

調べうる限りであるが、「花字柄鏡」を作成した松村稲葉守藤原直義、そして浄土真宗本願寺派龍口山 正順寺(広島県広島市)や同宗派十王山 明顕寺(広島県安芸郡海田町)の「梵鐘」を手掛けたと伝わる植木源兵衛藤原直義なる人物の2人が浮かんだ。

花字柄鏡|センチュリー文化財団 オンラインミュージアム

 

龍口山正順寺 | 浄土真宗本願寺派 龍口山正順寺

 

明顕寺の梵鐘 安芸郡海田町 - 通じゃのう

 

彼ら関して生没年や活動時期をはじめとする経歴などの情報は不明である。まず前者の藤原直義の「花字柄鏡」についてであるが、江戸時代作ということしか明らかになっていない。また後者の藤原直義の鐘は、正順寺鐘が享保五年(1720)作、明顕寺鐘が宝暦二年(1752)作と銘文に見える。いづれも江戸時代作であるが、彼らが同一人物なのか否かは定かではない。従って彼らと三国志」画を描いた藤原直義の関係も未明であるが、彼らのうち一方が描いた可能性を肯定や否定する判断材料がまだないため、言及するにとどめたい。

 

なぜこの「三国志」画が足利直義と結びついたのか。結論から述べると不明である。何らかの理由(例えばお寺の関係者がプレートを作ったタイミング等)において、署名の直義を誤って足利直義と同一視してしまったことにより紐付いてしまったのではいかと考える。

鄧艾と剣

鄧艾について調べていたら面白い記述があったので以下に。

 

梁代までの英雄が所有した名刀・名剣について記した陶弘景『古今刀剣録』。そこに鄧艾の「刀」に関する伝承が記されている。

原文は「漢籍レポジトリ」の『欽定四庫全書子部九の『古今刀劍錄』と「中國哲學書電子化計劃」に掲載する『太平御覧』兵部七十七 刀下を参照した。

Kanripo 漢籍リポジトリ : KR3h0083 古今刀劔錄-梁-陶弘景

太平御覽 : 兵部七十七 : 刀下 - 中國哲學書電子化計劃

 

鄧艾年十二、曾讀陳太丘碑。碑下掘得一刀、黑如漆、長三尺餘。刀上常有氣凄凄然、時人以為神物。

 

鄧艾は十二歳の時、(陳羣の祖父である)陳寔の碑を読んだ。碑の下を掘ると漆のように黒い三尺余りもの長さの刀を手に入れた。その刀から常にとても冷えた気が立ち上り、当時の人々は「神物」だと言った。

 

この陳寔の碑について『三國志』では次のように記す。

 年十二,隨母至潁川,讀故太丘長陳寔碑文,言「文為世範,行為士則」,艾遂自名範,字士則。

三國志』魏書二十八 鄧艾傳

 

十二歳の時、母親と潁川に行き、陳寔の碑を読んだ。そこに「文は世の範たり、行ないは士の則たり」と記されていた。そこで鄧艾は名を範、字を士則とした。

鄧艾は名と字をこの碑から採用したほど大きな感銘を受けたのであろう。刀が発する冷気を感じたのか、少し埋もれていた碑文を読むためなのか、掘った理由は定かではない。が、他人の碑の下を掘っている彼を母親は制止しなかったのだろうか…

 

さて何らかの縁があり鄧艾は「刀」を入手した。正史等ではそれは登場しないが、鄧艾とどのような運命を共にしたのであろうか。

ちくま『三国志』誤訳について

王必について調べていると、『三國志』魏書 武帝紀(建安二十三年条)に引く『三輔決錄』注において誤訳を見付けてしまったので、備忘録として記事に。

三輔決錄注曰:時有京兆金禕字德禕,自以世為漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉。覩漢祚將移,謂可季興,乃喟然發憤,遂與耿紀、韋晃、吉本、本子邈、邈弟穆等結謀。紀字季行,少有美名,為丞相掾,王甚敬異之,遷侍中,守少府。邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏,南援劉備。時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事。文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人為內應,射必中肩。必不知攻者為誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂為文然等,錯應曰:「王長史已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔。一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶必奔南城。會天明,必猶在,文然等衆散,故敗。,必竟以創死。

https://ctext.org/text.pl?node=601875&searchu=%E5%BE%8C%E5%8D%81%E9%A4%98%E6%97%A5&searchmode=showall&if=gb#result

建安二十三年正月甲子(218年1月6日)に起こった吉本の乱に関する注である。 乱が起こりその中で王必の肩に矢が当たるが、厳匡とともに乱を鎮圧する。そして「10日あまりして、王必は矢傷が原因で亡くなった」のだが、問題となる一文(赤字箇所)ではちくま訳では「その後十四日たって、王必はけっきょく矢傷のために死んだ」とする。

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ちくま『三国志』は概要や出来事などの流れを把握するため等、利便性の高いツールではあるが、たまにとんでもない誤訳や誤った解釈での意訳がされている場合があるので、それに留意して取り扱うべきだと改めて感じた。

大興寺の関連資料の翻刻『山城名跡巡行志』第二

久々に大興寺に関する記述を掲載する資料『山城名跡巡行志』を見付けたので、今回はその翻刻を行う。

 

は宝暦四年(1754)に釈浄恵により山城国名跡の巡行を目的に記されたいわゆるガイドブックである。その第二「愛宕郡 二」に大興寺の項が設けられている。

翻刻するにあたり国文学研究資料館が公開するデータベースの『山城名跡巡行志』(大和文華館蔵)を用いた。なお句読点は補わない。

・山城名跡巡行志 第二(P.91)

 

 〇霊芝山 大興寺

 呼芝之薬師 在同(東北院)所 宗昔禅 川南向 本尊薬師佛運慶作 十二神同作

 

〇霊芝山 大興寺

これを芝薬師と呼ぶ。

東北院の東にあり。宗は昔は禅。川が南向きに、同じく堂があり。

本尊は運慶作の薬師仏。十二神像も同作。

當寺後鳥羽院勅願 命運慶模叡山中堂薬師仏令作安當寺 又有蜀ノ関羽像。源尊氏公景仰之。

 

当寺は後鳥羽院の勅願。運慶に命じて(比)叡山中堂の薬師仏を作らせ当寺に安ず。また蜀の関羽像あり。源(足利)尊氏がこれを景仰す。

當寺元在大宮五辻ニ 今云芝薬師町 中古移京極今出川元禄年亦移

 

当寺はもとは大宮五辻の南にあり。今は芝の薬師町と云う。いにしえに京極の今出川に移す。元禄年(1688~1704)にまたここに移す。

 

令和年間刊行の三国志関連書籍

2019年

5月

5月21日(火)

 渡邉義浩『漢帝国-400年の興亡』(中公新書2542)

  価格(税込み):950円

  出版社:中央公論新社

  ISBN:978-4121025425

 

5月24日(金)

 羅貫中,立間祥介(訳)『三国志演義(1)』(角川ソフィア文庫

  価格(税込み):1,598円

  出版社:KADOKAWA

  ISBN:978-4044005092

 羅貫中,立間祥介(訳)『三国志演義(2)』(角川ソフィア文庫

  価格(税込み):1,598円

  出版社:KADOKAWA

  ISBN:978-4044005108

 

 5月27日(月)

 『ユリイカ2019年6月号 特集=「三国志」の世界』

  価格(税込み):1,512円

  出版社:青土社

  ISBN:978-4791703678

 

6月

6月7日(金)

 きだまさし『三国志武将列伝~蜀の章~(2)』(少年チャンピオン・コミックス・エクストラ)

  価格(税込み):680円

  出版社:秋田書店

  ISBN:978-4253253123

 

6月8日(土)

  長野剛,玉神輝美(監修)『武将を描く 戦国・三国志+天使』

  価格(税込み):2,592円

  出版社:ホビージャパン

  ISBN:978-4798619521

 

6月10日(月)

 渡邉義浩『人事の三国志 変革期の人脈・人材登用・立身出世』(朝日選書)

  価格(税込み):1,620円

  出版社:朝日新聞出版

  ISBN:978-4022630841

 

6月19日(水)

 『歴史REAL 戦乱の100年がいっきにわかる!三国志の真実』

  価格(税込み):1,166円

  出版社:洋泉社

  ISBN:978-4800316950

 

6月20日(木)

 関尾史郎『三国志の考古学 出土資料からみた三国志三国時代』(東方選書52)

  価格(税込み):2,160円

  出版社:東方書店

  ISBN:978-4497219138

 

 本庄敬三国志メシ1』希望コミックス

  価格(税込み):1,080円

  出版社:潮出版社

  ISBN:978-4267906718

 

6月21日(金)

 渡邉義浩,仙石知子『三国志演義事典』

  価格(税込み):3,888円

  出版社:大修館書店

  ISBN:978-4469032154

 

6月22日(土)

 成君憶,漆嶋稔 訳『烈火三国志 上巻』

  価格(税込み):1,728円

  出版社:日本能率協会マネジメントセンター

  ISBN:978-4820731788

 成君憶,漆嶋稔 訳『烈火三国志 中巻』

  価格(税込み):1,728円

  出版社:日本能率協会マネジメントセンター

  ISBN:978-4820731795

 成君憶,漆嶋稔 訳『烈火三国志 下巻』

  価格(税込み):1,728円

  出版社:日本能率協会マネジメントセンター

  ISBN:978-4820731801

 

6月24日(月)

 エイ出版社編集部『新説!三国志

  価格(税込み):1,296円

  出版社:エイ出版社

  ISBN:978-4777955558

 『今こそ知りたい三国志

  価格(税込み):1,080円

  出版社:英和出版社

  ISBN:978-4865457186

 

6月25日(火)

 渡邉義浩『別冊NHK100分de名著 集中講義 三国志 正史の英雄たち』(教養・文化シリーズ)

  価格(税込み):972円

  出版社:NHK出版

  ISBN:978-4144072468

 

 『三国志 Three Kingdoms Unveiling the Story』

  価格(税込み):2,500円

  出版社:美術出版社

  ISBN:978-4568105148

 

 

7月

7月2日(火)

 『史実 三国志

  価格(税込み):1,188円

  出版社:宝島社

  ISBN:978-4800294913

 

7月5日(金)

 井波律子『キーワードで読む「三国志」』

  価格(税込み):850円

  出版社:潮出版社

  ISBN:978-4267021886

 

7月12日(金)

 酒見賢一 原作/諸織たばさ『泣き虫弱虫諸葛孔明(3)』(ビッグコミックス

  価格(税込み):638円

  出版社:小学館

  ISBN:978-4098603305

 

7月24日(水)

 渡邉義浩『眠れなくなるほど面白い 図解三国志

  価格(税込み):810円

  出版社:日本文芸社

  ISBN:978-4537217100

8月

 

9月

 

10月

 

11月

 

12月

 

臨済宗佛光山 法水寺

伊香保温泉で有名な群馬県渋川市。その県道15号線沿いに、国内では類を見ない超巨大な寺院が建立された。昨年2018年4月21日(土)に落成したその寺院の臨済宗佛光山 法水寺と言う。

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法水寺の航空写真。埼玉の聖天宮(地図右)と比較するとその巨大さは歴然である。

佛光山は台湾仏教の五座山の1つに数えられ(他の4つは法鼓山曹洞宗、慈済基金会:臨済宗中台山禅宗霊鷲山曹洞宗)、1967年5月16日に台湾・高雄市を総本山に星雲大師が開基した比較的にまだまだ若い宗派であるが、現在世界200ヶ所以上に寺院や道場などの施設があり、約300万人もの信者がいるそうだ。

日本へは1991年10月に星雲大師が来日し、佛光山の教えが将来したそうだ。

 

なぜ渋川市に台湾系の巨大寺院が創建されたのか。その理由のひとつに渋川市は「伊香保温泉を核とした外国人観光客誘致の促進と外国人観光客への対応力強化」を施策として掲げており、2017年10月31日には高雄市との友好協定が締結されていることから、長年に渡って親密な関係が構築されていたからだと思われる。

 

また以下の記事によれば法水寺は、2014年4月13日(日)に起工式が厳かに行われ、約4年もの歳月をかけて創建された。

インバウンド客の観光資源の役割があるが、本質的には佛光山の日本の総本山としての機能も担う。

 

さて法水寺の伽藍は山門と、祇園樓、霊山堂、そして本堂の大雄宝殿で構成されている。本尊には白玉を彫って作られた純白の釈迦牟尼仏が大雄宝殿に祀られており、像高はなんと4.8mもあるそうだ。その寺院の規模に劣らない巨大な像である。

また大雄宝殿内には韋駄天像とともに「伽藍菩薩」として関帝像も置く。像については以下のように解説をする。

伽藍菩薩

 昔、中国三国時代関羽武将です。

蜀漢劉備に仕え、武勇や義理に重んじたことです。また「忠義」の象徴として敬われました。神さまとしてまつられています。

 隋朝の時、ある日天台宗智者大師の説法に感銘を受け、それで大師のもとに帰依して仏法とお寺を守るように発願しました。それで智者大師は隋煬帝に奏して、関羽伽藍神に封じたという説があります

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少し日本語が怪しい箇所があるが、今日知られていることが記されている。後半の智者大師のくだりは二階堂善弘先生の「神となった関羽」に文章構成が近いが、それに拠って書かれたのであろうか。

この「伽藍菩薩」像こと関帝像はいつから安置されたのか、その時期や像の詳細は未明である。しかしながら落成したタイミング(2018年4月21日)までには置かれたハズである。

以前記事にしたように、2017年4月13日(木)に東京「媽祖廟」において、台湾より新たに関帝像が迎えられ、安置され始めた。そのため、もしかしたら東京「媽祖廟」像よりも置かれたタイミングが遅い可能性も否めない。法水寺の関帝像は日本で最も新しい関帝像の可能性も考えられる。

 

関帝像を置く寺院は黄檗宗寺院がほとんどであるが、先述したように法水寺は臨済宗である。現在認識している限りで関帝像を祀る臨済宗寺院は霊芝山 大興寺、景徳山 安国寺、そして直指山 単伝庵(らくがき寺)の3か寺しかない。そのため法水寺像は貴重な例になりそうだ。

一度、法水寺へ参詣しに行きたいとものである。

 

群馬県渋川市伊香保町伊香保673-43

 

 

【2019年9月8日(日)追記】

行ってきました!

柳成竜『記關王廟』翻刻

成龍(1542 - 1607年6月7日)は、李氏朝鮮の宣祖に仕えた宰相で、文禄・慶長の役に活躍した人物である。

 

さて今回は柳成龍『記關王廟』の翻刻を行う。原文を参照するにあたり早稲田大学の古典籍総合データベースにて公開されている崇禎六年(1633)跋の柳成竜『西厓先生文集(全二十巻)』を用いた。なお句読点などは補わない。

 

西厓先生文集. 巻之1-20 / 柳成竜 [撰](『西厓集』八 収録「西厓先生文集巻之十六」pp.61-62)

西厓集 文集20巻年譜3巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(pp.492-493)

記關王廟

余往年赴燕都自遼東至 帝京數千里名城大邑及閭閻衆盛處無不立廟宇以祀漢將壽亭侯關公至於人家亦私設畫像掛壁置香火其前飮食必祭凡有事必祈禱官員新赴任者齊宿謁廟甚肅虔余怪之問於人不獨北方爲然在在如此遍於天下云萬曆壬辰(1592)我國爲倭賊所侵國幾亡 天朝發兵救之連六七載未已丁酉(1597)冬天將合諸營兵進攻蔚山賊壘不利戊戌(1598)正月初四日退師有遊擊將軍陳寅力戰中賊丸載還漢都調病迺於所寓崇禮門外山麓創起廟堂一坐中設神像以奉關王諸將楊經理以下各出銀兩助其費我國亦以銀兩助之廟成 上亦往觀之余與備邊司諸僚隨 駕詣廟庭再拜其像塑土爲之面赤如重棗鳳目髯垂過腹左右塑二人持大劍侍立謂之關平周倉儼然如生自是諸將每出入參拜皆曰爲東國求神助卻賊五月十三日大祭廟中云是關王生日若有䨓風之異則神至矣是日天氣淸明午後黑雲四起大風自西北來䨓雨並作有頃而止衆人皆喜曰王神下臨矣旣而又於嶺南安東星州二邑建廟安東則斲石爲像星州土塑而星州甚著靈異之跡云未幾倭酋關白平秀吉死倭諸屯悉皆撤去此亦理之難測者也豈偶然耶昔苻堅入寇晉謝安以㫌節旗鼓禱於蔣子文廟謝玄以八萬偏師勝强秦六十萬如八公山草木風聲鶴唳說者皆以爲神助况關王以英雄剛大之氣其扶正討賊之志貫萬古如一日死而不滅安知無神應耶嗚呼烈哉京師廟前立二長竿懸兩旗一書協天大帝一書威震華夷字大如椽因風飄拂半空遠近皆仰而見之其帝號亦皇朝所追崇云可見其尊崇之至也

朝鮮において関羽を信仰する文化は壬申の乱を通じて、日本軍を撃退するために韓国へ派遣された明軍が持ち込んだものである、と言われている。ソウル東大門には関羽を祀る東大門が現存し、観光地とのひとつとして広く知られている。

さてこの史料に拠ると、萬曆壬辰すなわち万暦二十年(1592)より起こった文禄・慶長の役において、朝鮮での関王廟の創建と関羽信仰、そして関羽の霊験についてが記される。

要約すると日本軍に進攻されていた朝鮮軍は、嶺南の安東・星州(現慶尚北道安東市・星州郡)の地にて関王の廟を建立し関羽を祀ると、秀吉が死去し日本軍が全軍撤退した、というものである。

 

それを機に関羽は韓国内にて「国家を護る守護神」として認識され、関羽を信仰する文化が伝播し根付いたのであろうか。