清河八郎が見た関羽

 

昨年、上の記事を作成した際に、伝承では足利尊氏とする箇所が『西遊草』では三代目将軍 足利義満の名で記されていたり、伝「関帝」像の脇侍二躯に関しても、関平関興ではなく、関平周倉と尊名が記されていることから、小山松 勝一郎 校注『西遊草』が誤ったものなのか、清河八郎がそのように記したのか疑問を抱いた。そのためオリジナルを確認する必要があったが、それを所蔵する清河八郎記念館(山形県東田川郡庄内町)には、時間の都合もありどうしても行くことが叶わず今日に至ってしまった。

 

そんな中、先日大変ありがたいことにオリジナルを目にする機会を得たので、大興寺の記述を確認することができた。関係者のみなさまにこの場を借りて心から感謝を申し上げます。この度はありがとうございました。

 

さて本題へ。

まずは大興寺に関する記述を改めて以下に翻刻する。なお変体仮名は平仮名に改め、句読点は補った。

清河八郎『西遊草』 巻六 安政二年(1855)六月十二日の条

田間の山園なる真如堂にいたる。(略)

また少し手前に芝薬師/あり。女人の中堂といひて古しへより名高/き本尊にて、叡山にありしに、終此所に帰/し、女人の叡山にいたらざる為に、此所にて/拝さする為とぞ。側仏ともに至て古物/なり。当寺に足利義満の所持せし元朝より/伝来の關羽及關平、周倉の木像あるゆへ、/開扉いたし見るに、關羽は床几にかかり、/両人は戈をたづさへ、左右の前に侍せり。/如何成ゆへにて、元より伝来せしや。住/持の僧留守にて、たしかならず。至て/古風のありさまなりき。

 清河は大興寺を訪れた際、理由は定かではないが足利尊氏ではなく「足利義満が元より像を取り寄せた」と知見を得たようである。また両脇侍についても「関平周倉」と尊名が記されていた。よって小山松本の誤りではないことを確認することが出来た。

 

両脇侍に関する記述は本島知辰(月堂)『月堂見聞集』にも見ることが出来る。

『月堂見聞集』巻十八 享保十一年(1726)三月三日

〇(享保十一年)三月三日より、東山眞如堂の内靈芝山大興寺本尊藥師、幷尊氏將軍所持關羽、關平、周倉之像開帳

ここでも尊名を「関平周倉」としている。このことから最低でも1726年~1855年までの約130年間は、関羽関平周倉として祀られていたことを傍証しているといえよう。

 

周倉関興に名が改められた時期は未明であるが、おそらくかなり時代が下ってからではないかと考える。平成25年度(2013)京都春季非公開文化財特別公開にあたり、調査が入っていると思われるのでそのタイミング頃が濃厚ではないだろうか…。

榛名神社と八斗島稲荷神社の彫刻をめぐって

今回は「北関東三国志ツアー」番外編!

 

これまで4回にわたりツアーで巡った群馬県内の寺社の「三国志」作品についてレポートを掲載した。どこにどのような作品があるのか整理すると次の表の通りである。もし行かれる方は参照していただければ幸いです。

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法水寺のみ伽藍神像(関帝像)を祀り、他3神社においては三国志演義を題材とした彫刻を有する。いずれも拝観料などはかからず鑑賞することができる。

さて、それぞれの神社において題材となった場面は少し異なるが、「趙雲救幼主」「張飛大鬧長坂橋」の彫刻が共通して採用されていることから、演義の中でも当時広く知られていた(人気が高かった)場面であり、加えて表現しやすかったため、採用されたのではないだろうか。

当時の三国志文化の一端を垣間見えたような気がする。

 

 

今回のツアーを通して(個人的に)非常に気になった点があった。それは榛名神社と八斗島稲荷神社の彫刻の人物達が非常に類似している箇所がいくつも見受けられた事である。

今回はその類似点について紹介したい。

 

 

まず初めに「三顧茅廬」の場面における関羽張飛像を見たい。

向かって左側が榛名神社 双龍門の胴羽目の関羽で、右側は八斗島稲荷神社の関羽である。比較のため後者の向きを左右反転した。

関羽の像容は幘を被り、細く吊り上がった目、片手で髯をしごくというお馴染みの姿で表されている。髯の流れ方や肩当ての形状とフリルのような装飾、さらに肩当て上に走る2本のライン、鬚をしごく手の袖口の形状や、腰に吊るす佩玉のようなアイテム*1とそれに連なる鎖状の装飾の形状などが酷似する。

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関羽(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)

 

続いては同場面における張飛である。こちらも比較のため前者を左右反転した。

張飛の表情は驚いたかのように口を開け、片手を前に出し、少し前傾の姿勢である。側頭部にの両者ともに目が丸く、髭が太く表されている。こちらも肩当ての形状とフリルのような装飾はもちろん、張飛が背負う刀状の武器の鞘には、背中から2本の紐が結び付けられており、やはり類似する点が複数見受けられる。 

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張飛(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)

 

今度は「張飛大鬧長坂橋」である。こちらの画像も向かって左側が榛名神社 双龍門の胴羽目の張飛像で、右側は八斗島稲荷神社 脇障子に施されている張飛像である。榛名神社文化財保護のためか全体を金網で覆われているため、非常に見にくいがあらかじめご了承いただきたい。

 

ここでの張飛は馬に跨り、蛇矛を突き立て大喝している様子が表されている。張飛の後ろから前方に向けて風が吹いているかように、彼の髭や髪の毛が流れる。また手綱を握る左手と左腕の位置、身に纏う鎧類の形状や装飾も酷似する。

馬は両者ともに右前足を軽く曲げた体制をしており、飾りの数は異なるが馬具も張飛と同様に一致する。

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大喝する張飛(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)

 

特に張飛の得物である蛇矛の穂先が目を引く。なぜか穂先が狼牙棒のようなスパイク状の形状をする。江戸時代以降、日本で登場した「三国志」作品において、蛇矛の穂先は直線的な槍状の刃や、トライデントのような三叉の刃が描かれている。このような狼牙棒状のものは『演義』はもちろん『絵本通俗三国志』をはじめとする「三国志」作品には見えない。我々がよく知る「穂先が曲がりくねった蛇矛」が日本で登場し定着したは比較的に遅く、1980年代初頭であると思われる。

このことについては以下の記事詳しく考察されているので参照されたい。

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蛇矛(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)
左の動物の顔に耳があるので蛇ではなさそう…

 

今回人物を中心に3点の彫刻を比較し、類似点をいくつか挙げた。このことから1.一方の彫刻を模倣し作成された、2.共通する作品に倣い作成された、3.製作者が非常に親しい関係だったものと考える。

この張飛の特徴的な蛇矛を手掛かりに、制作するにあたり参考にされた「三国志」作品が存在しないか調べることにした。榛名神社 双龍門が竣工したのは安政二年(1855)、三国志ブームのきっかけとなった『絵本通俗三国志』の登場は天保七年(1836)~同十二年(1841)にかけて刊行されたので、期間は1836~1855年までと限定する。

 

 

管見の限りでは、完全に一致した形状を持つ蛇矛を確認することができなかった。しかしながら、それに近い蛇矛を3点見付けることができた。歌川国芳天保年間頃1831~1845)「通俗三國志英雄之壹人」、同じく歌川国芳(1852)「三国志長坂橋の圖」。少し設定した期間より時代が下るが月岡芳年(1872)「燕人張飛」である。

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歌川国芳「通俗三國志英雄之壹人」
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歌川国芳(1852)「三国志長坂橋の圖」
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月岡芳年(1872)「燕人張飛

 

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参考までに葛飾戴斗二世『絵本通俗三国志

 

 少し比べにくいため、それぞれの穂先だけ上から次の順で並べた。

榛名神社 双龍門

・八斗島稲荷神社

歌川国芳「通俗三國志英雄之壹人」

歌川国芳三国志長坂橋の圖」

月岡芳年(1872)「燕人張飛

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この中で唯一、天保年間(1831~1845)頃に描かれた歌川国芳「通俗三国志英雄之壹人」の穂先が、形状や時期が近く、もしかしたら制作する際に参照された可能性が考えられよう。浮世絵における穂先が複雑な形状をしているため、彫刻を作成するにあたりそれが簡略化、記号化されたのではないだろうか。いずれも肯定も否定もできる判断材料が乏しいため、今回は指摘するにとどめたい。

 

もしスパイク状の蛇矛を見掛けられた方はコメント等で教えていただけると嬉しいです!

 

【追記:2019年12月1日(日)】

7月末から「スパイク状の穂先の蛇矛」について、その由来を調べて見たものの、参照に用いられた作品を明らかにすることができなかった。大変ありがたいことに二階堂善弘先生より「『水滸伝』からの影響と考えればいいと考えます。(中略)たぶん、描いた側には手本があって、それが『水滸伝』のほうの絵だったと思います。ポーズとかが一緒で、そして、あとで中身を張飛にしただけでしょう。」と助言をいただきました。

挿絵付きの『水滸伝』作品を確認したところ、秦明が張飛と似た容姿をしていた。また「狼牙棒」を手にしており、この形状が例の蛇矛とも非常近い形状をしていた。よって秦明を参照に彫刻が作成された可能性が考えられるのではないだろうか。

*1:2019年9月1日開催の第38回 三国志研究会にて発表した際に「煙草入れではないか」という意見を頂戴しました。

八斗島稲荷神社

「北関東三国志ツアー」4箇所目。これまでは渋川市の寺社を巡ってきたが、今度は伊勢崎市八斗島町に場所を移す。当初は猿田彦神社の後に渋川市内にある喫茶店「しょっかつ珈琲」へ足を延ばす予定であったが、時間の都合により断念…

榛名神社から始まった三国志ツアーもついに最後となる。

八斗島と書いて「やったじま」と読む。八斗島町は利根川流域にある町で、元々は稗島という中洲であった。後に村に格上げとなり、開拓した里長である八斗兵衛宗澄の名より村名を八斗島と付けられたそうである。稲荷神社の由緒は次の様に伝わる。なお年号の表記や句読点は補った。

当社ハ天正年間(1573~1593)、今ヲ去ル四百余年前創立シテ、当時那波城主大江顕宗、奥州九戸戦争ノ際討死セシカバ、其ノ民境野主水正吉澄・五十嵐無兵衛知徳ノ両人、遺志ヲ奉ジテ、当国利根川中洲稗島ト云ウ所来ノ荒野ヲ開拓シテ田野トナシ、並ニ、五穀五柱ノ神ヲ勧請シテ祭祀ス本社即チ之也。

 又地名改メ八斗島ト云ヒ、吉澄ノ子八斗兵衛宗澄・知徳ノ子ト共ニ、其ノ志ヲ継ギテ耕耘鋓鋤ニ怠リナカリシカバ、衆人其ノ徳ヲ感ジ遠近ヨリ集リテ現今ノ如キ村落トナレリ。

 安政二年(1855)三月一五日、名主五十嵐八兵衛・組頭五十嵐善兵衛・仝境野半右エ門・仝五十嵐茂兵衛・仝黒沢弥右エ門・仝境野三郎右衛門等ノ協力ニ依リ上棟スルヤ、稲荷神社鎮座祭神・蒼稲荷魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命保食命ノ神々ヲ祀リシモ、現在ノ本殿ハ元下福島八郎神社デ、間口一間奥行五尺ノ本殿ヲ、明治四十三年(1910)村社指定トナルヤ、豊武神社ト合併シ、同四十三年八月大洪水ノ為、戸数六二戸全村床上浸水シテ、県ヨリ見舞金トシテ金百圓也ヲ受ケ、其ノ金ニテ当時世話人小暮幸次郎・境野誉三・境野吉之助・氏子総代境野長太郎・境野仙三・境野誉三・五十嵐弘次郎・黒沢東馬・社掌荻野美恭・仝牛久保瓶哉ノ相談結果、右下福島本殿ヲ金六拾圓也ニテ買求メ残金ハ雑費トシテ、現在本殿ニ鎮座スルヤ軈テ当社ヲ稲荷社ト尊称シ其ノ徳ヲ表彰セリ。

 爾来遠近相伝ヘテ豊作ノ神トナシ賓者常ニ絶エズ、本社祭日ハ毎歳陰暦二月初午ノ日及九月二九日両日也。

 本社ハ木造作リニテ桁一五尺五寸、杉材三面作リニ破風造、向拝付茅葺一五坪二合二勺 宅地ハ三百七十坪ノ民有地デアル。

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由緒にあるように、明治四十二年(1909)に八郎神社(伊勢崎市福島町)が豊武神社(群馬県伊勢崎市大正町)へ合祀された。その翌年に起こった大洪水の見舞金を元手に、八郎神社の本殿を譲り受け、八斗島町の稲荷神社へ移築するに至ったようである。本殿移転の夜は「大風が吹き荒れ雷鳴が轟いた、という伝承が残る」と稲荷神社で作業をされていた町民の方に教えていただいた。

 

境内には鳥居と本殿があり、その周囲を身長ほどの高さの玉垣や柵で囲まれる。本殿脇には町の集会場を有す。八斗島稲荷神社の三国志はこの本殿に見える。本殿は東向きで、東側を除いた3方面の胴羽目と、左右の脇障子に三国志を題材にした作者不明の彫刻が施されている。最後の最期で、このツアーで散々悩まされた金網の呪縛からようやく解放された。

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参道より

 

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本殿

 

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まずは北側。「三顧茅廬」を題材にした彫刻が胴羽目に見える。言わずもがな、ここでは諸葛亮の廬を訪ねる劉備関羽張飛、彼らを迎える童子、そして右上の廬には昼寝(?)する諸葛亮が配される。

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昼寝をする諸葛亮。とてもかわいい!

 

続いて西側の後壁。こちらには左右の脇障子と胴羽目に三国志の彫刻が施されており、向かって左脇障子には劉禅を抱く趙雲が、胴羽目には趙雲を追う曹操軍の兵士である。こちらも定番の「趙雲救幼主」である。この兵士たちの中で騎乗する人物は、演義の内容からおそらく張郃ではないかと思われる。

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西側全景
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左脇障子。単騎駆けする趙雲
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胴羽目には趙雲を追う曹操軍の兵士たち

 

最後は西側向かって右脇障子には長坂橋の上で蛇矛を突き立て大喝する張飛が、また南側の胴羽目には張飛から逃げている曹操軍の兵士たち(?)が描かれる。「張飛大鬧長坂橋」である。曹操軍の兵士と思われる人物たちに特筆すべき特徴がなく、どれが誰なのか特定にはいたらなかった。馬に乗る人物は将軍クラスの人物ではないかと推測する。

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右脇障子には仁王立ちする張飛
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南側胴羽目。張飛から逃げる曹操軍の兵士たちか?

 

これらの彫刻には、木目などに塗料材の付着を見受けることができなかった。このことから彩色は施されていなかったものと思われる。

 

八斗島稲荷神社は少しアクセスしにくい位置に所在するが、本殿の彫刻はいずれも丁寧に作りこまれており非常に見応えあるものであった。

 

 

 

 

今回の「北関東三国志ツアー」では、三国志ファンにほとんど知られていない群馬県内の寺社の三国志作品を巡ってきた。全ての彫刻作品に共通することは、三国志演義の名場面を題材にしている、ということである。『絵本通俗三国志』の登場を機に江戸時代に爆発的な三国志ブームが起こった。そのためやはり劉備陣営の人気が非常に高く、どの作品も漏れなく劉備陣営が主体の場面が題材になっていた。当時の三国志受容の一端を垣間見ることができた。

 

狭い地域でこれだけ複数の作品が点在することから、群馬県には他にもこのような彫刻作品が人知れず眠っているのかもしれない。3回目の三国志ツアーの開催の実施に向けて、引き続き北関東地域の寺社を中心に三国志作品の探索を行いたい。

 

〒372-0827

群馬県伊勢崎市八斗島町1406

猿田彦神社

「北関東三国志ツアー」3箇所目。榛名山中腹の榛名神社伊香保温泉街よりすぐの法水寺と、これまでは多くの参拝者で賑わう寺社を巡ってきた。上越新幹線を東に越えて、今度はいわゆる町の神社とでも言えよう少し閑散とした猿田彦神社へ参詣することに。

 

猿田彦神社群馬県道 25号高崎渋川線と、同35号渋川東吾妻線の交差点より南東に1本入ったところに所在する。全てが巨大な法水寺と比較すると、猿田彦神社は非常にこじんまりと、先述したように閑散としている。25号線に参道入口を構え、「猿田彦神社」と彫られた社号標を有するが、玉垣などの社地と道路を区切るものは全くなく、加えて隣接する建設会社の社用車等が境内の端々に駐車されおり、どこからどこまでが境内なのか判然としない神社である。一般的に境内には寺社の由緒や歴史が記された案内板や看板などが設置されているが、そういった類のものもなく、創建時期や沿革をはじめとする一切が不明である。

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社号標

 

境内には南向きに構える本殿と、その前には鳥居を構える。それを正面に、向かって左手側には猿田彦大神と天宇受売命の石像が安置される社殿が、また右手には神楽殿を有する。毎年1月にこの神楽殿にて奉納される「大和神楽」は渋川市重要無形民俗文化財に指定されている。

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本殿と鳥居

 

さて猿田彦神社の「三国志」は本殿に見ることが出来る。本殿の東西の両側壁と北側の後壁には、漆喰で精緻な彫刻が施された幅およそ2m、高さおよそ60cmもの鏝絵(こてえ)計3点が施されている。文化財の保護のためか、ここでも榛名神社と同様に金網で全体が覆われる。

 

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本殿側面と憎き金網

 

まず西側部の側壁より見ていきたい。ここでは「張飛大鬧長坂橋」が題材にされており、中央には橋が、その右側には騎乗する張飛。そして左側には曹操軍の兵士4人が配される。張飛は丸い眼を大きく見開き、口を開けており、大喝する様子を表しているのではないか、と考える。横山『三国志』でお馴染みの緊箍児のようなものを頭に付ける。頬骨筋に沿って小鼻からこめかみにかけて、まるで隈取のような髭と鬚を蓄える。我々がイメージするような虎髭のようなヒゲではない。左手には蛇矛を持っていたと思われるが、左手首より先が逸しており形状は不明。また袴(?)には薄い青が見えるため、当時は非常に鮮やかな彩色されていたものと思われる。

一方曹操軍の兵士たちは足軽のような恰好に、まるでシャンプーハットのような形状の兜をかぶる。いずれも表情が豊かで、今にも動き出しそうな躍動感のあるポージングがされている。例えば木にぶつかりそうになったり、張飛に驚き転倒していたり、といった具合だ。

 

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西側全景

 

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大喝する張飛

 

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逃げる曹操軍兵士たち。表情や動きがとても豊か!

 

北側の後壁の鏝絵にうつる。左側の建物には1人の人物が、中央部右手には蓑笠に身を包む2人の人物が見える。まず前者の人物は横山『三国志』の孫権のような鬚をたくわえ、頭には葛巾をいただく。膝上には板状の何かが置かれ、それに両手が添えられる。この像容より琴を弾く諸葛亮と思われる。また中央部の2人は、西側の曹操軍の兵士たちと顔の造りや、鎧などの類似する点が複数見受けることができたため、おそらく劉備軍と敵対する曹操軍をはじめとする勢力の人物かと推測できる。このことより「空城計」が題材にされた場面だと推測する。

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北側全景

 

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琴を弾く諸葛亮

 

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司馬懿軍の間者



 最後は東側部。中央には鎧甲冑で身を包む騎兵と、それから逃げるような兵士たちが配される。騎兵の背面には後光のようなラインが描かれており、胸元には何か塊のようなモノが抱かれており、劉禅を抱く趙雲、つまり「趙雲救幼主」をモチーフにされた鏝絵であろう。

猿田彦神社の各鏝絵の中でもこの趙雲は特に日本化されており、鎧兜姿は日本の戦国武将を彷彿させる。また曹操軍の兵士たちの像容も含め、竹内真龍谷大学教授が主催される三国志研究会(全国版)において「鏝絵は劉備軍=日本の武者・英雄に、曹操軍=敵国人(おそらく中国)と置き換えて表されているのではないか」「雰囲気が元寇ぽい」という意見をいただいた。いつこの鏝絵が作成されたのか定かではないが、三国志を題材にした寺社彫刻と比較すると、猿田彦神社の鏝絵は非常に日本化された人物として仕上げられている、ということは特筆しておきたい。

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東側全景

 

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劉禅を抱く趙雲
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趙雲の馬に踏まれる曹操軍兵士

 

神社の概略について有益な情報は得ることが出来なかったが、非常に珍しい鏝絵を周囲の目を気にせず、ゆっくりと鑑賞をすることができた。少しアクセスはしにくいが、渋川市へ行かれる際は「しょっかつ珈琲」と合わせて足を運んではいかがだろうか。

 〒377-0007

群馬県渋川市石原754

臨済宗佛光山 法水寺(2)

「北関東三国志ツアー」2箇所目。榛名神社を阿斗もとい、あとにし続いては臨済宗佛光山 法水寺へ。

 今春作成した記事で法水寺の概要について記したので今回は省略する。

 

法水寺は榛名山東麓、渋川市の山間部の広大な土地に伽藍を構えており、伊香保温泉街より車で5分程度の非常にアクセスしやすい距離に位置する。広大といっても漠然としているため具体的に例えると、JR大阪駅がすっぽりと収まってしまうほどの広い敷地を有する。

 

法水寺の敷地に一歩入ると、色彩豊かなテカテカとした巨大な布袋尊が鎮座しており参拝者を迎える。嫌でも目に飛び込んでくる。
入り口から山門まではおよそ250メートルほどの石段の参道が延びており、高低差はおよそ40メートル。これだけでも日本の寺院ではまず考えられない規模である。この石段を上るだけで汗が噴き出る。夏場だと直射日光と照り返しで尋常ではないほど汗ばむことになるだろう…

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入口より見た法水寺

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異国情緒あふれるつややかな布袋尊

 

石段を上ると法水寺の全容をようやく目にすることが出来る。山門の大きさもデカいが、伽藍もやはりデカい。

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山門。やはりデカい。

 

伽藍は山門と、祇園樓、霊山楼、そして本堂で構成されているが、建物ごとに様々な施設や機能を有しており、複合施設のようになっている。祇園樓は写経堂・禅堂・歴史館が、霊山楼は山門事務所・一筆字ギャラリー、そして軽食を提供する御茶の間が、本堂は五観堂・展覧失・教室・大雄宝殿の機能を持つ。

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境内の案内図

 

法水寺は観光寺になっているためか、尼僧の方が快く迎えてくださり、しかも伽藍内を饒舌な日本語で丁寧に案内してくださる。カオスなスポットとしてイメージを抱いていたが拍子抜けしてしまった。

閑話休題。先の記事でも言及したように、法水寺の「三国志」は大雄宝殿で見ることが出来る。大雄宝殿は1000人以上をも収容できるキャパを誇っており、本尊には白玉を彫って作られた像高4.8メートルの巨大な純白の釈迦牟尼仏が祀られている。寺院の規模に見合ったサイズ感である。脇侍はいない。

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釈迦牟尼仏

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大雄宝殿内。だだっ広い

 

大雄宝殿入口すぐには「韋駄菩薩」として韋駄天像と対に「伽藍菩薩」として関帝像が置かれる。韋駄天および関帝像については以下の解説がされている。日本語が少しおかしいのは愛嬌ということで。

韋駄菩薩(韋駄天)

 身に甲冑を着け、合掌した両腕に宝杵を持ち、或は左手で宝杵を地面につきます。中国禅宗寺院では山門や本堂にまつられています。特に食事に関することを司るとされており、日本禅宗寺院では台所や食堂によくまつられています。また、こどもの病魔を除く神ともいわれてます。

 お釈迦様涅槃の後、捷疾鬼(しょうしつき)が仏舎利から歯を盗み去ったとき、此の神(韋駄菩薩)が追いかけて、取り戻したという説があることです。そこから足の速い人を韋駄天走り」というようになった。

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韋駄菩薩(韋駄天)像

 

伽藍菩薩

 昔、中国三国時代関羽武将です。

蜀漢劉備に仕え、武勇や義理に重んじたことです。また「忠義」の象徴として敬われました。神さまとしてまつられています。

 隋朝の時、ある日天台宗智者大師の説法に感銘を受け、それで大師のもとに帰依して仏法とお寺を守るように発願しました。それで智者大師は隋煬帝に奏して、関羽伽藍神に封じたという説があります

f:id:kyoudan:20190908130740j:plain伽藍菩薩(関帝)像

 

日本では伽藍神像は須弥壇上に、主に本尊の左右に達磨像と対に置かれることがほとんどである。繰り返しになるが先述したように関帝像は出入口近くに設けられた1.5メートルほどの高さの台に、韋駄天像と対に置かれている。関帝像の像高は1.3~1.4メートルほどで、韋駄天像もほぼ同様の像高であった。

関帝像は倚像ではなく立像。右手は左肩付近まで上げて髯をしごき、左手には青龍刀のような長柄の武器ではなく、指揮棒を左腰付近で握る。深緑色や金色を基調とした鮮やかに彩られた甲冑を、その上から袍に身をつつむ。

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持物は房が2本付いた指揮棒。かわいらしい。

 

関帝像が安置された時期や詳細を明らかにすることができなかった。やはり落成したタイミング(2018年4月21日)の直前頃に置かれたのではないかと考える。

日本の寺社や道観で祀られている関帝像で、これまで最も若かったのが東京「媽祖廟」2階に本尊として祀られている像(2016年4月13日将来)、次いで同じく東京「媽祖廟」2階の祭壇に配される像(2013年10月13日将来)であった。法水寺像が祀られ始めたことにより、その順位が更新され、この像が日本で最も若い関帝像になったと思われる。

 

 

〒377-0102 群馬県渋川市伊香保町伊香保673-43

 

榛名神社

群馬県内に見える「三国志」を巡った「第2回 北関東三国志ツアー」を2019年7月28日(日)に敢行した。そのレポートをいくつかの頁に分けて記したい。ツアーの概要については以下のまとめを参照されたい。

 

第2回北関東三国志ツアー - Togetter

 

「北関東三国志ツアー」1ヶ所目。

 

赤城山妙義山とともに「上毛三山」の1つに数えられ、古くより山岳信仰を受けてきた榛名山群馬県高崎市)。その榛名山の南中腹に位置するのが榛名神社である。創建は6世紀末と伝えられ、火産霊神と埴山毘売神を祀る。

 

榛名神社公式サイト|榛名神社へようこそ

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榛名神社山門

 

榛名神社の境内は榛名川に沿って南北におよそ500メートルにわたって、山門や三重塔、社、堂などの多くの建物や、神楽殿そして社殿を有する。

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榛名神社の「三国志」は本殿の少し手前に位置する「双龍門」に見える。榛名神社の由緒および、双龍門の概要は次の通りである。

当社は第三十一代用明天皇丙午元年(一三〇〇余年前)の創祀で延喜式内社である。徳川時代の末期に至る迄神仏習合の時代が続き満行宮榛名寺などと称され画て上野寛永寺に属し、明治初年神仏分離の改革によって榛名神社として独立した。

 

双龍門

竣工は安政二年(一八五五)。間口十尺、奥行九尺。総欅造。四枚の扉にはそれぞれ丸く文様化された龍の彫刻が施されていることから双龍門と呼ばれるようになった。羽目板の両面には「三国志」にちなんだ絵が彫られており、天井の上り龍、下り龍とともに双龍門の風格を高めている。棟梁群馬郡富岡村清水和泉、彫刻武蔵熊谷宿長谷川源太郎*1、天井の龍は高崎藩士矢島群芳の筆。

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この双龍門は北東から南西に構える入母屋造りの四脚門で、控柱~門柱、門柱~控柱の羽目板に2枚1組の彫刻が施されている。北西部外側には「桃園結義」(左:天を仰ぐ劉備、右:関羽張飛)、内側には「三顧茅廬」(左:劉備と彼を迎える童子諸葛亮、右:関羽張飛)が、また南東部外側は「趙雲救幼主」(左:趙雲を追う曹操軍、右:劉禅を抱く趙雲)、内側には「張飛大鬧長坂橋」(左:大喝する張飛、右:逃げる曹操軍)をそれぞれ配する。

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天を仰ぐ劉備劉備を見る関羽張飛

 

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長坂橋にて大喝する張飛とその表情

 

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劉禅を抱き単騎駆けする趙雲

 

これらの彫刻はいずれも地上から150cm以上の高さに位置している。かつては彩色がされていたと思われるが、経年のためかほとんどの塗料が剥落しまっており、例えば人物の目など部分的に当時の色が残っている。また双龍門自体が本殿へ通じる参道上にあるため、年間を通して非常に多くの参拝者が間近くを通行する。文化財保護の観点からかは不明であるが、彫刻を保護するように目の細かい金網で覆われている。そのため撮影しようにもピントが彫刻ではなく、金網にあってしまいデジカメでは綺麗に写真を撮ることができなかった。幸いなことにスマートフォンのレンズが金網よりも小さかったため、接写することで細部を撮影することが叶った。文明の利器と技術の素晴らしさと恩恵をここで改めて痛感した。

 

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撮影時の様子

 

これらの彫刻を有する双龍門は先述したように、熊谷出身の彫刻師・長谷川源太郎(一般に熊谷源太郎と呼ばれる)の作である。彼は47歳の時に熊谷から越後へ拠点を移すが、「越後のミケランジェロ」と称される石川雲蝶と並び、社寺彫刻の名手として新潟でも高く評価されたそうである。長谷川源太郎の作品と伝えられているものは、この双龍門のほかに曹洞宗赤城山 西福寺(新潟県伊米ヶ崎町)や上野国総社神社(群馬県前橋市元総社町)、御島石部神社(新潟県柏崎市西山町)などの寺社において、今日でも彼の彫刻を見ることが出来る。

 

少しハプニングもあったが、30分以上もの時間をかけて双龍門の彫刻をゆっくりと鑑賞することができた。そこを行き交う参拝者の方々から、かなり痛い視線が肌に刺さりまくっていたと感じるほど、間違いなく「不審者」をしていたと思う。

細部まで丁寧に作りこまれているこれほど大きな彫刻を間近で見れる機会はほとんどない。加えて題材が三国志ということもあり、三国志が好きな方にとってはたまらない隠れた三国志スポットだと思う。

 

榛名神社は2017年より本殿をはじめとする社殿の修復工事が現在行われており、2020年は双龍門の修復工事が着手が計画される。来年はこれらの彫刻を鑑賞することができなくなるため、もし行こうと考えられている方は注意していただきたい。

 

〒370-3341 群馬県高崎市榛名山町849

*1:1799~1861

井上文昌「関羽正装図」

とある方より情報をいただいたので記事に。

この場を借りて御礼申し上げます。この度は大変貴重な情報を誠にありがとうございます!

 

今回は北海道石狩市三国志スポットについてです。

 

以前より国内の寺院や道観等において祀られる関帝像について調査している。それを調べるに伴い三国志(正確には三国志演義の一場面)を題材にした絵馬の数々が神社や寺院等に奉納されていたり、また彫刻が社殿等に施されているということを知り、関帝調査の副産物として何故か次々に絵馬の情報が見つかった。そのためそれらの情報をマッピングした「神社仏閣に見える「三国志」」を作成していた。

 

 

 

タイトルに記したように、幸運なことに石狩弁天社(北海道石狩市弁天町22-8)に納められている井上文昌「関羽正装図」(以下、「関羽図」とする)に関する情報をいただいた。以前より存在は知ってはいたが、1つの絵馬を見るために北海道へはさすがに行けない。そのこともあり今回教えていただけたことが非常にありがたい限りである。今回はその絵馬について見ていきたい。

 

石狩弁天社の由緒は次の通りである。

石狩弁天社

 この神社は元禄7年(1694年)、松前藩の山下伴右衛門の願いによって建てられました。建てられた目的は、石狩場所の主産物、鮭の大漁と石狩に出入りする船の安全を祈るためです。中心となる神様は弁財天(弁天様)です。弁天社は石狩場所に関係した役人や場所請負人によって信仰され、とくに村山家では守り神として大切にしました。主神のほか、稲荷大明神をはじめ多くの神々がまつられていますが、石狩川の主であるチョウザメと亀を神にした「妙亀法鮫大明神(みょうきほうこうだいみょうじん)」*1は鮭漁の神としていまも信仰されています。建物の内外には本州から運ばれ奉納された御神燈、絵馬などが残り、蝦夷地第一の勢さんを誇った石狩場所の繁栄を示しています。

 

例の「関羽図」は本殿に納められており、祭壇に向かって左手に掲げられる。本殿内の様子やその他の絵馬については以下の記事に詳しく記されているため、もし興味があるかたはこちらを参照されたい。

 「関羽図」はの大きさは縦がおよそ2mほどもあるケヤキ材の巨大絵馬である。金色の下地の上に、青龍刀を提げる関羽と、彼に寄りそう赤兎馬が彩色豊に、かつ額いっぱいに描かれる。関羽は「面如重棗、脣若塗脂、丹鳳眼、臥蠶眉」と、演義の記述をそのまま再現したかと思うほど丁寧に表されている。

絵馬の左上部には「安政三年丙辰孟秋/応需而謹写/文昌丙士(落款)」と銘が見える。

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さて石狩弁財社ではこの「関羽図」を以下のように説明する。

関羽正装図』

銘文 安政三年丙辰孟秋 応需而謹写 文昌丙士

 

由来

 この絵は中国の三国志に出てくる英雄『関羽』で井上文昌が描いたものである。文昌は越後の人で画を谷文晃に学んだ。

 『関羽』は中国では武の神、また信義を重んじたことから商売繁盛の神、このほか、学問の神として信仰されている。日本では水戸光圀足利尊氏が信仰していた。 以上

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日焼けなのか、汚れなのか、塗りつぶしたのか定かではないが、非常に気になる跡が説明板に見える…内容から考えると近年作成されたものであろうか。この記述に拠れば、越後出身の井上文昌(1818~1863)が安政三年(1856)に、つまり38歳の時に描いたようである。越後で三国志と言えば、「越後のミケランジェロ」と評される石川雲蝶が作成した曹洞宗萬年山 曹源寺の「三国志、唐人馬上の図」木彫だろうか。やはり越後の人物と三国志は何か縁がある気がしてならない。

閑話休題。なぜ越後の人物が描いた絵馬がここに奉納されているのだろうか。調べた限り、今回は残念ながらその手掛かりを得ることはできなかった。井上文昌は当時かなりの名を馳せていた絵師だったのだろうか。

 

さて、個人的に目を引かれたのはこの絵馬の説明文の後半部である。関羽が死後、「関帝」として祀られるようになった事は江戸時代でも認識されていたかと思うが、「足利尊氏が信仰していた」と尊氏についても僅かではあるが触れられている。まさか北海道の社で尊氏の信仰についてこのような記述があることに非常に驚かされた。

今日、尊氏が関羽を信仰したという情報は広く知られておらず、1.地誌の記録、2.大興寺の伝承、3.研究論文、4.一般書(例えば狩野直禎『「三国志」の知恵』講談社現代新書など)程度しか見ることが出来ない。

この説明板が作成された時期や、また何をもとにしてこのような一文を記したのか気になるばかりである。

 

この「関羽図」のように、全国各地の寺社に関羽はもちろん、三国志を題材にした多種多様な絵馬が奉納されている。尊氏の信仰に関する伝承や情報が見える可能性は極めて低いと思うが否めない。ひょんなところでとんでもないモノが見つかることがあるのが、フィールドワークの醍醐味のひとつでもあるので、今後寺社を巡る際はより注視したい。

*1:通称「サメ様」

張松について

毎月東京都港区の三国軒にて開催されている「三国志義兄弟の宴」。その第51回目の宴が2019年9月15日(日)に開催される。今回のテーマはまさかの張松!彼にスポットが当たるなんて思いもしなかった…

 

張松については「劉備の入蜀する前後のストーリーで活躍する人物」という程度でしか認識しておらず、これまで一度も掘り下げて考えたことがなかったこともあり、張松についてより理解を深めるために、また宴の予習として以下に記していきたい。

 

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張松劉備の入蜀の際に活躍した人物で、身体的にかなり個性的な特徴を有している。近年では「おそ松くん」に登場するイヤミを彷彿させるようなビジュアルで描かれることが増えてきている。さて張松について演義の次の一文が簡潔に表されている。訳は立間祥介『三国志演義』を参照にした。

劉璋視之。出進言者。益州成都人也。官帯益州別駕。姓張、名松、字永年。其人生得額钁頭尖,鼻偃齒露,身短不滿五尺,言語有若銅鐘。

演義』嘉靖本第119回「張永年反難楊脩」】

 

卻說那進計於劉璋者,乃益州別駕,姓張,名松,字永年。其人生得額钁頭尖,鼻偃齒露,身短不滿五尺,言語有若銅鐘。

【『演義』毛本第60回「張永年反難楊脩 龐士元議取西蜀」】

 

この時劉璋に献策したのは、益州の別駕、姓は張、名は松、字は永年である。この人、生まれつき顔が出て頭はとがり、鼻はひしゃげて歯が反りかえり、身長は五尺に満たず、声は銅の鐘のようであった。

 

史書における張松を見よう。『後漢書』では「劉焉袁術呂布列傳」、また『正史三國志』においては蜀書では「劉焉傳子璋」「先主傳」「法正傳」「黃權傳」「馬忠傳」、呉書では「吳主傳」に彼の名が見える。記述を統括すると1.対張魯の策として劉璋張松曹操のもとへ遣わすが、2.劉璋曹操ではなく劉備を頼ることを勧め、3.劉備に入蜀の手引きを行った、という。

 

張松の身体的描写については陳寿の本文ではなく、先主傳が引く『益部耆舊雜記』に触れられる。この箇所が「孟徳新書」のくだりのネタになったのであろう。

張肅有威儀,容貌甚偉。松為人短小,放蕩不治節操,然識達精果,有才幹。劉璋遣詣曹公,曹公不甚禮松;主簿楊脩深器之,白公辟松,公不納。脩以公所撰兵書示松,松飲宴之間一看便闇誦。脩以此益異之。

【『三國志』蜀書巻二「先主傳」引『益部耆舊雜記』

 

張松の兄の)張粛には威儀があり、容貌は甚だ雄偉であった。張松はひととなりは短小で、放蕩にして節操を治めず、しかし見識に達して果断であり、才幹があった。劉璋が遣って曹操に詣らせた処、曹操は甚だしくは礼遇しなかった。曹操の主簿楊脩が深くこれを器重し、曹操張松を辟すよう白したが、曹操は納れなかった。楊脩は曹操が撰述した兵書を張松に示した処、張松は宴飲の間に一たび看てたちまち闇誦した。楊脩はこれによって益々これを異とした。

 

正史では張松は「身長が低いく、性格には難がある」とする。演義にあるように「額钁頭尖」「鼻偃齒露」「言語有若銅鐘」ということではなさそうだ。記されていない=特筆すべき点ではないということもあるので、張松は平均的な容貌をしていたのではないだろうか。

 

さて演義に記述があり、正史にはない記述されていないことがもう一点ある。それは字である。演義では「永年」とあるが、正史にはそれが見えない。某百科事典やwebページに拠れば出典が明記されず「字は子喬、演義では永年」と記載されている。前者はどこに拠る情報なのか。

 

東晋の永和十一年(355)に常璩によって編纂された『華陽國志』附「益梁寧三州先漢以來士女目録」に次の記述が見えた。

 安南將軍張表字伯逺

成都人伯父肅廣漢太守兄松字子喬州牧劉璋别駕從事

 

安南将軍 張表 字は伯逺

成都の人。伯父張肅は肅廣漢太守。その兄は張松、字は子喬で州牧の劉璋别駕從事。

張松の字は「子喬」で、本貫は演義と同じく蜀郡成都県である。『演義』から張松を知り、加えて横山『三国志』をはじめとする三国志作品でも張松の字は永年で表記されていたため、そうだと思い疑ってこなかった。「益徳」「翼徳」と同様に歴史上では「子喬」、演義では「永年」とゆらぐことについて頭の片隅に入れておきたい次第である。

伝足利直義画「三国志」について

三国志ニュースの2019年8月13日(火)付の記事において、「足利直義筆(滋賀県米原市 清瀧寺徳源院)」と題する記事が更新された。タイトルの割には記事のほとんどが個人の日記的な記述が占めており、残念ながら肝心の「三国志」画に関してはたった数行程度しか、しかも漠然としか触れられていなかった。その記事の補足として以下に「三国志」画について記したい。

 

足利直義筆(滋賀県米原市 清瀧寺徳源院) - 三国志ニュース

 

 滋賀県米原市に所在する天台宗霊通山 清瀧寺徳源院(以下「徳源院」とする)は鎌倉時代から江戸時代まで栄え、北近江を支配した京極氏の菩提寺である。京極家初代の京極氏信が弘安六年(1283)に草創。境内には本堂、位牌殿、三重塔などを有する。その位牌堂に「足利直義画(尊氏の弟)三国志室町時代)」という手書きのプレートとともに、3人の人物が描かれた「三国志」画が公開されている。

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足利直義足利尊氏の異母弟で、徳治元年頃(1306?)から文和元年(1352)にかけて活躍した人物である。亀田先生の『観応の擾乱』(中公新書)が世間的に大流行していることもあり、その名前に聞き覚えがある方も多いのではないだろうか。この時代は演義がまだ成立しておらず、「三国志」といえばまだ正史しか将来していない時代である。

 

閑話休題。画の右下には幘を被り、赤ら顔でつり目の人物が、中央部には白い面の烏帽子のようなものを頂く人物が、そして左下には浅黒い顔で丸く大きな眼が特徴的な人物が描かれる。右下の人物の特徴より、これは関羽の持つ容姿と一致することから関羽と比定する。また関羽と共に描かれることがあり、上述の特徴を持つ人物と言えば劉備、そして張飛に限定されよう。よってこの「三国志」画は劉備関羽張飛を題材に描かれていると考える。

 

また画の右脇には「自笑齊藤原直義 畫」の署名と、その下に2つの落款(いずれも解読不明)が捺されている。徳源院 位牌堂の所蔵品のページにおいて「足利直義筆」という一文とともに画像が掲載されているが、厳密に言えば「筆」ではなく「足利直義画」もしくは「藤原直義 畫」である。

徳源院 位牌堂

 

足利直義は源姓であるが、藤原姓ではない。加えて「自笑斎」と号した記録が見つかっておらず、足利直義が作品時代がそもそも発見されていない。仮にこの「三国志」画が足利直義が描いたものとするならば、署名の後に落款ではなく花押が続くのではないだろうか。この画は南北朝期ではなくかなり後の時代に。直感的に江戸時代の作風のように見える。ではこの藤原直義という人物が足利直義ではないとするならば、一体は何者なのだろうか。

 

調べうる限りであるが、「花字柄鏡」を作成した松村稲葉守藤原直義、そして浄土真宗本願寺派龍口山 正順寺(広島県広島市)や同宗派十王山 明顕寺(広島県安芸郡海田町)の「梵鐘」を手掛けたと伝わる植木源兵衛藤原直義なる人物の2人が浮かんだ。

花字柄鏡|センチュリー文化財団 オンラインミュージアム

 

龍口山正順寺 | 浄土真宗本願寺派 龍口山正順寺

 

明顕寺の梵鐘 安芸郡海田町 - 通じゃのう

 

彼ら関して生没年や活動時期をはじめとする経歴などの情報は不明である。まず前者の藤原直義の「花字柄鏡」についてであるが、江戸時代作ということしか明らかになっていない。また後者の藤原直義の鐘は、正順寺鐘が享保五年(1720)作、明顕寺鐘が宝暦二年(1752)作と銘文に見える。いづれも江戸時代作であるが、彼らが同一人物なのか否かは定かではない。従って彼らと三国志」画を描いた藤原直義の関係も未明であるが、彼らのうち一方が描いた可能性を肯定や否定する判断材料がまだないため、言及するにとどめたい。

 

なぜこの「三国志」画が足利直義と結びついたのか。結論から述べると不明である。何らかの理由(例えばお寺の関係者がプレートを作ったタイミング等)において、署名の直義を誤って足利直義と同一視してしまったことにより紐付いてしまったのではいかと考える。

鄧艾と剣

鄧艾について調べていたら面白い記述があったので以下に。

 

梁代までの英雄が所有した名刀・名剣について記した陶弘景『古今刀剣録』。そこに鄧艾の「刀」に関する伝承が記されている。

原文は「漢籍レポジトリ」の『欽定四庫全書子部九の『古今刀劍錄』と「中國哲學書電子化計劃」に掲載する『太平御覧』兵部七十七 刀下を参照した。

Kanripo 漢籍リポジトリ : KR3h0083 古今刀劔錄-梁-陶弘景

太平御覽 : 兵部七十七 : 刀下 - 中國哲學書電子化計劃

 

鄧艾年十二、曾讀陳太丘碑。碑下掘得一刀、黑如漆、長三尺餘。刀上常有氣凄凄然、時人以為神物。

 

鄧艾は十二歳の時、(陳羣の祖父である)陳寔の碑を読んだ。碑の下を掘ると漆のように黒い三尺余りもの長さの刀を手に入れた。その刀から常にとても冷えた気が立ち上り、当時の人々は「神物」だと言った。

 

この陳寔の碑について『三國志』では次のように記す。

 年十二,隨母至潁川,讀故太丘長陳寔碑文,言「文為世範,行為士則」,艾遂自名範,字士則。

三國志』魏書二十八 鄧艾傳

 

十二歳の時、母親と潁川に行き、陳寔の碑を読んだ。そこに「文は世の範たり、行ないは士の則たり」と記されていた。そこで鄧艾は名を範、字を士則とした。

鄧艾は名と字をこの碑から採用したほど大きな感銘を受けたのであろう。刀が発する冷気を感じたのか、少し埋もれていた碑文を読むためなのか、掘った理由は定かではない。が、他人の碑の下を掘っている彼を母親は制止しなかったのだろうか…

 

さて何らかの縁があり鄧艾は「刀」を入手した。正史等ではそれは登場しないが、鄧艾とどのような運命を共にしたのであろうか。