『攝津名所圖會大成』卷之六「關帝堂」翻刻

四天王寺の東側、大阪市天王寺区勝山の住宅地に大阪 関帝廟こと、黄檗宗白駒山 清寿院(通称:南京寺)が鎮座する。関帝廟ということで、本尊は例にもれず関帝像である。その左右は関平周倉が侍る。

 

清寿院の関帝像は古く、おそらく清寿院が浄土宗から黄檗宗に改宗し、中興開山した明和元年(1764)以降のタイミングで将来し、祀られたものだと思われる。清寿院の歴史を調べる上で縁起は必読である。

 

暁鐘成 著,松川半山・浦川公佐 画『攝津名所圖會大成』卷之六に清寿院の縁起は記録される。今回はそれに記される該当箇所(清寿院に関するもの)を以下に翻刻していきたい。

關帝堂

 右同所の北淸壽院あり當寺開山大成和尚唐土より將來の靈像なりとぞ

 且什寶に聖德太子御自作の十一面観觀世音あり長凡六寸五分許

 

本尊 關聖帝君

 長凡二尺餘唐作一木を以て彫刻する所なり

 例年五月十三日祭祀執行伶倫奉納の音樂あり

 

 頂下有赫大成筆

 

 無忠義心何勞景仰有丈夫氣方可瞻依 大成筆

 

 關帝堂 江元燨筆

 

 香(草冠に熱)爐中思漢鼎

 桃閑樹上想名圓 沈草亭筆

 

以下は清寿院の縁起について。句読点等は適宜補った。また片仮名表記は平仮名に改めた。

 抑 關聖帝君と號し奉るは前將軍漢壽亭侯荊州王關羽のことなり。關は姓、名は羽、字は雲長。始は壽長と號す。河東蒲州解梁又は解良とも書といへる所にて誕生あり。其始め、桃園に義を結びてより身を皇叔に委ね、義心忠情 天を貫き、雄略智謀 地を動かし、呉魏と戰ふては、敵將を殺す事 芥蔕の如く五關を屠り、七軍を溺し襄陽を抜て樊城を圍み、天下に横行して周雄艱險を避ず、其 大節江南の諸郡を収め取り、前將軍に拜せられ世に虎臣と稱す。目に呉魏を見下し、漢室を輔け興して天下を漢の一統と爲の中世なりしに、漢の運數盡極るの時なりしや、遂に呂蒙が爲に欺かれ、孫権が前に到といへども、忠節を守りて薨ず。是時後漢献帝建安二十四年巳亥十月某日にして、本朝十五代神功皇后御宇十九年巳亥に相當れり。已に臨沮に身は亡ぶといへども、神靈は四海に彌綸し、天地と共に盡る事なく、千萬年の後も神靈煌々明々とぢて、日月の如く世界を照臨し、上天子より下萬民の善悪を照察し天下國家を守護し靈應利生日々に炳然が故に、漢土にては諸州諸縣諸官所に神廟を建て恭敬し尊信すされば、明の謝肇淛が五雑爼に曰く、今天下の神廟の多き中に於て、諸萬人の皆歸依し、信仰尊信し諸願を祈りて其靈験の炳然なるは、關聖帝君の神廟に勝りたるはなし。其威靈験感應ありし事は、諸の傳記に載せ、及び諸人の耳目に見聞する所の者あきらかにして的據あり、と記せり。右の五雑爼に限らず、諸子百家の書は勿論、石點頭平妖録等の諸の小説に載て、其神験靈應を尊び稱す。夫此關聖帝君の尊號は明の英宗皇帝の勅封にして、猶又三界伏魔大帝と勅封ありし事は、皇明實記に見ゆ。又明の穆宗皇帝は關帝を何曲協天上帝と勅封し給ひ、宋の眞宗皇帝は關公を義勇武安王に封せらる。宋の徽宗皇帝は關公を崇寧眞君と勅封あり。蜀漢の昭烈皇帝は關公を荊州王に封せらる。 是の如く歴代の帝王より下萬民に至るまで、其神靈を尊仰して、或は天尊と稱し、又は關聖或は關帝、關爺々と尊み稱し、漢土四百餘州の各國諸官府・安南・琉球・女眞・朝鮮・呂宋暹羅等の諸外國までも、盡く神廟を建て祭祀尊信す。今の淸朝の天下萬民ことごとく歸依信仰し、天子も猶更尊敬し給ふが故、毎歳の二月と八月には、吉日を擇びて祭り給ふ故に、呉興の沈亮巧が通德類情に曰く、二月擇日祭関帝廟致齋一日と記す。八月も同じ。又清朝の暦五月十三日を關帝暴と記せしは、蓋此日も關帝の祭日ならん。夫神は祈るに應じ、信ずるに験ありて、私なし故に日本にて信じ祈れば、本朝に降臨し漢土外國にて祈り信ずれば、其所に出現すて天下泰平、五穀成就ならしめ、其信仰尊敬し祭る人には、富貴萬福・長命延壽・子孫繁榮・家業繁盛・諸々の災難・重病・横死を除滅さしめ種々の靈験利生あること疑ひ、更に有べからずと云々。

『晉書』卷十三 天文下に関するメモ(2)

昨日に続き今回は正始元年から景元五年まで、曹芳から曹奐が統治した時代までの事象について見ていく。

 

少帝正始元年四月戊午,月犯昴東頭第一星。十月庚寅,月又犯昴北斗四星。占曰:「月犯昴,胡不安。」

二年六月,鮮卑阿妙兒等寇西方,敦煌太守王延破之,斬二萬餘級。

三年,又斬鮮卑大帥及千餘級。

※正始元年四月は庚辰が朔日のため戊午は存在せず。

※正始元年四月戊午=240年4月??日(西暦240年5月頃)

 

二年九月癸酉,月犯輿鬼西北星。

正始二年九月癸酉=241年9月3日(西暦241年10月24日)

 

三年二月丁未,又犯西南星。占曰:「有錢令。」一曰:「大臣憂。」

三年三月,太尉滿寵薨。

四年正月,帝加元服,賜羣臣錢各有差。

四年十月、十一月,月再犯井鉞。是月,宣帝討諸葛恪,恪棄城走。

五年二月,曹爽征蜀。

正始三年二月丁未=242年2月9日(西暦242年3月27日)

 

五年十一月癸巳,填星犯亢距星。占曰:「諸侯有失國者。」

正始五年十一月癸巳=244年11月11日(西暦244年12月27日)

 

七年七月丁丑,月犯左角。占曰:「天下有兵,左將軍死。」

七月乙亥,熒惑犯畢距星。占曰:「有邊兵。」一曰:「刑罰用。」

※正始七年七月は甲戌が朔日のため丁丑は存在せず。正始七年六月丁丑の誤りか。

正始七年六月丁丑=246年6月24日(西暦246年7月24日)

正始七年七月乙亥=246年7月2日(西暦246年8月1日)

 

九年正月辛亥,月犯亢南星。占曰:「兵起。」一曰:「將軍死。」

七月癸丑,填星犯楗閉。占曰:「王者不宜出宮下殿。」嘉平元年,天子謁陵,宣帝奏誅曹爽等。天子野宿,於是失勢。

正始九年正月辛亥=248年1月17日(西暦248年2月28日)

正始九年七月癸丑=248年7月22日(西暦248年8月28日)

 

嘉平元年六月壬戌,太白犯東井距星。占曰:「國失政,大臣為亂。」

四月辛巳,太白犯輿鬼。占曰:「大臣誅。」一曰:「兵起。」

嘉平元年六月壬戌=249年6月6日(西暦249年7月3日)

※「嘉平元年六月壬戌」の出来事と時系列が入違っているため、「四月辛巳~」の記述は嘉平元年ではなく嘉平二年の事象か。

嘉平元年四月辛巳=249年4月24日(西暦249年5月23日)

嘉平二年四月辛巳=250年4月1日(西暦250年5月18日)

 

二年三月己未,太白又犯井距星。

三年七月,王淩與楚王彪有謀,皆伏誅,人主遂卑。

嘉平二年三月己未=250年3月8日(西暦250年4月26日)

 

吳孫權赤烏十三年夏五月,日北至,熒惑逆行,入南斗。

秋七月,犯魁第三星而東。漢晉春秋云「逆行」。案占:「熒惑入南斗,三月吳王死。」一曰:「熒惑逆行,其地有死君。」

太元二年,權薨,是其應也,故國志書於吳。是時,王淩謀立楚王彪,謂「斗中有星,當有暴貴者」,以問知星人浩詳。詳疑有故,欲悅其意,不言吳有死喪,而言「淮南楚分,吳楚同占,當有王者興」,故淩計遂定。

※ここで呉の事象(赤烏十三年の星占とその結果)が挿入される。

 

嘉平二年十二月丙申,月犯輿鬼。

 

嘉平二年十二月丙申=250年12月19日(西暦251年1月28日)

 

三年四月戊寅,月犯東井。

五月甲寅,月犯亢距星。占曰:「將軍死。」一曰:「為兵。」是月,王淩、楚王彪等誅。

七月,皇后甄氏崩。

四年三月,吳將為寇,鎮東將軍諸葛誕破走之。

嘉平三年四月戊寅=251年4月3日(西暦251年5月10日)

嘉平三年五月甲寅=251年5月10日(西暦251年6月15日)

 

其年七月己巳,月犯輿鬼。

九月乙巳,又犯之。

十月癸未,熒惑犯亢南星。占曰:「臣有亂。」

嘉平三年七月己巳=251年7月26日(西暦251年8月29日)

嘉平三年九月乙巳=251年9月3日(西暦251年10月4日)

嘉平三年十月癸未=251年10月11日(西暦251年11月11日)

 

四年十一月丁未,月又犯鬼積尸。

※嘉平四年十一月は丙寅が朔日のため丁未は存在せず。

 

五年六月戊午,太白犯角。占曰:「羣臣有謀,不成。」庚辰,月犯箕星。占曰:「將軍死。」

七月,月犯井鉞。丙午,月又犯鬼西北星。占曰:「國有憂。」

嘉平五年六月戊午=253年6月26日(西暦253年8月7日)

※嘉平五年六月は癸巳が朔日のため庚辰は存在せず。

※嘉平五年七月は癸亥が朔日のため丙午は存在せず。

 

十一月癸酉,月犯東井距星。占曰:「將軍死。」

正元元年正月,鎮東將軍毋丘儉、揚州刺史文欽反,兵俱敗,誅死。

二月,李豐及弟翼、后父張緝等謀亂,事泄,悉誅,皇后張氏廢。

九月,帝廢為齊王。蜀將姜維攻隴西,車騎將軍郭淮討破之。

嘉平五年十一月癸酉=253年11月13日(西暦253年12月20日

 

高貴鄉公正元二年二月戊午,熒惑犯東井北轅西頭第一星。

※嘉平六年十月に正元元年に改元

正元二年二月戊午=嘉平六年二月戊午=254年2月30日(西暦254年4月4日)

 

甘露元年七月乙卯,熒惑犯東井鉞星。壬戌,月又犯鉞星。

八月辛亥,月犯箕。

 ※甘露元年七月は乙亥が朔日のため乙卯および壬戌は存在せず。

甘露元年八月辛亥=256年8月7日(西暦256年9月13日)

 

吳廢孫亮太平元年九月壬辰,太白犯南斗,吳志所書也。占曰:「太白犯斗,國有兵,大臣有反者。」

其明年,諸葛誕反。

又明年,孫綝廢亮。吳魏並有兵事也。

※ここで再度孫呉の記述が挿入される。

※五鳳三年十月に太平元年に改元

太平元年九月壬辰=五鳳三年九月壬辰=256年9月19日(西暦256年10月24日)

 

甘露元年九月丁巳,月犯東井。

※本文が魏の「甘露元年」の記述に戻る。呉の年号「甘露」ではないので注意。

※甘露元年九月は甲戌が朔日のため丁巳は存在せず。

 

二年六月己酉,月犯心中央大星。

八月壬子,歲星犯井鉞。

九月庚寅,歲星逆行,乘井鉞。

十月丙寅,太白犯亢距星。占曰:「逆臣為亂,人君憂。」景元元年五月,有成濟之變及諸葛誕誅,皆其應也。

甘露二年六月己酉=257年6月10日(西暦257年7月8日)

甘露二年八月壬子=257年8月14日(西暦257年9月9日)

甘露二年九月庚寅=257年9月22日(西暦257年10月17日)

甘露二年十月丙寅=257年10月29日(西暦257年11月22日)

 

二年三月庚子,太白犯東井。占曰:「國失政,大臣為亂。」是夜,歲星又犯東井。占曰:「兵起。」

至景元元年,高貴鄉公敗。

※時系列的に甘露二年三月ではなく、甘露三年三月の誤りか。

甘露二年三月庚子=257年3月29日(西暦257年4月30日)

甘露三年三月庚子=258年3月6日(西暦258年4月25日)

 

三年八月壬辰,歲星犯輿鬼鑕星。占曰:「斧鑕用,大臣誅。」

甘露三年八月壬辰=258年8月30日(西暦258年10月14日)

 

四年四月甲申,歲星又犯輿鬼東南星。占曰:「鬼東南星主兵,木入鬼,大臣誅。」

景元元年,殺尚書王經。

甘露四年四月甲申=259年4月26日(西暦259年6月3日)

 

元帝景元元年二月,月犯建星。案占:「月五星犯建星,大臣相譖。」是後鍾會、鄧艾破蜀,會譖艾。

二年四月,熒惑入太微,犯右執法。占曰:「人主有大憂。」一云:「大臣憂。」

四年十月,歲星守房。占曰:「將相憂。」一云:「有大赦。」明年,鄧艾、鍾會皆夷滅,赦蜀土。

五年,帝遜位。

 ※遂に蜀漢鍾会と鄧艾によって陥落。また元帝 曹奐が司馬炎に帝位を譲ったことにより魏も滅亡する。晋による三国統一もまもなくといったところである。

 

まだまだ天文志は続くが、次回は光熙元年九月(306年9月)までを見て一旦終わりとしたい。

『晉書』卷十三 天文下に関するメモ

恥ずかしながら中華書局の『晉書』を持っていないため、『晉書』を読むにあたり、中央研究院の「漢籍電子文獻資料庫」と、維基文庫の晋書、そして中國哲學書電子化計劃が公開する影印本(ハーバード燕京図書館蔵)を参照した。

また天文に関する知識や用語等は専門外のため、今回は原文を引用し、記述される日干支を旧暦と新暦に変換し記載する。

まずは曹丕曹叡までの期間の事象を見ていきたい。

 

魏文帝黃初四年三月癸卯,月犯心大星。占曰:「心為天王位,王者惡之。」

六月甲申,太白晝見。案劉向五紀論曰:「太白少陰,弱,不得專行,故以己未為界,不得經天而行。經天則晝見,其占為兵喪,為不臣,為更王;強國弱,小國強。」是時孫權受魏爵號,而稱兵距守。

十二月丙子,月犯心大星。占同上。

黃初四年三月癸卯=223年3月15日(西暦223年5月2日)

黃初四年六月甲申=223年6月27日(西暦223年8月11日)

黃初四年十二月丙子=223年12月22日(西暦224年1月30日)

 

五年十月乙卯,太白晝見。占同上。又歲星入太微逆行,積百四十九日乃出。占曰:「五星入太微,從右入三十日以上,人主有大憂。」一曰:「有赦至。」

七年五月,帝崩,明帝即位,大赦天下。

黃初五年十月乙卯=224年10月6日(西暦224年11月4日)

 

六年五月壬戌,熒惑入太微,至壬申,與歲星相及,俱犯右執法,至癸酉乃出。占曰:「從右入三十日以上,人主有大憂。」又曰:「月、五星犯左右執法,大臣有憂。」一曰:「執法者誅,金、火尤甚。」

十一月,皇子東武陽王鑒薨。

黃初六年五月壬戌=225年5月16日(西暦225年7月9日)

黃初六年五月壬申=224年5月26日(西暦224年7月19日)

 

七年正月,驃騎將軍曹洪免為庶人。

四月,征南大將軍夏侯尚薨。

五月,帝崩。蜀記稱明帝問黃權曰:「天下鼎立,何地為正?」對曰:「當驗天文。往者熒惑守心而文帝崩,吳、蜀無事,此其徵也。」案三國史並無熒惑守心之文,疑是入太微。

八月,吳遂圍江夏,寇襄陽,大將軍宣帝救襄陽,斬吳將張霸等,兵喪更王之應也。

※この箇所は日付の記述はなく、表記は年月のみ。

 

明帝太和五年五月,熒惑犯房。占曰:「房四星,股肱臣將相位也,月、五星犯守之,將相有憂。」

其七月,車騎將軍張郃諸葛亮,為亮所害。

十二月,太尉華歆薨。

十一月乙酉,月犯軒轅大星。占曰:「女主憂。」

太和五年十一月乙酉=231年11月17日(西暦231年12月28日)

※この箇所では熒惑が房を犯した星占の結果が、先に記されているため、11月の事象が12月よりも後に記される。少しややこしい。

 

六年三月乙亥,月又犯軒轅大星。

十一月丙寅,太白晝見南斗,遂歷八十餘日,恒見。占曰:「吳有兵。」

明年,孫權遣張彌等將兵萬人,錫授公孫文懿為燕王,文懿斬彌等,虜其眾。

青龍三年正月,太后郭氏崩。

太和六年三月乙亥=233年3月9日(西暦233年4月16日)

太和六年十一月丙寅=232年11月4日(西暦232年12月3日)

※太和五年の星占の「女主憂」の結果が、記述の直後ではなく、この箇所で触れられる。

 

龍二年三月辛卯,月犯輿鬼。輿鬼主斬殺。占曰:「人多病,國有憂。」又曰:「大臣憂。」是年夏及冬,大疫。四年五月,司徒董昭薨。

五月丁亥,太白晝見,積三十餘日。以晷度推之,非秦魏,則楚也。是時,諸葛亮據渭南,宣帝與相持;孫權寇合肥,又遣陸議、孫韶等入淮沔,天子親東征。蜀本秦地,則為秦魏及楚兵悉起矣。

七月己巳,月犯楗閉。占曰:「有火災。」三年七月,崇華殿災。

龍二年三月辛卯=234年3月7日(西暦234年4月22日)

龍二年五月丁亥=234年5月3日(西暦234年6月17日)

※いよいよ諸葛亮最後の北伐「五丈原の戦い」が始まります。

※青龍二七月は甲申が朔日のため己巳は存在せず。乙巳の誤りか。

※青龍二年七月乙巳=234年7月22日(西暦234年9月3日)

 

三年六月丁未,填星犯井鉞。戊戌,太白又犯之。占曰:「凡月、五星犯井鉞,悉為兵災。」一曰:「斧鉞用,大臣誅。」

七月己丑,填星犯東井距星。占曰:「填星入井,大人憂。」行近距,為行陰。其占曰:「大水,五穀不成。」景初元年夏,大水,傷五穀。

其年十月壬申,太白晝見,在尾,歷二百餘日,恒晝見。占曰:「尾為燕,有兵。」

十二月戊辰,月犯鉤鈐。占曰:「王者憂。」

※青龍三年六月は戌申が朔日のため丁未、戊戌は存在せず。

青龍三年七月己丑=235年7月12日(西暦235年8月13日)

青龍三年十月壬申=235年10月26日(西暦235年11月24日)

青龍三年十二月戊辰=235年12月23日(西暦236年1月19日)

 

四年閏正月己巳,填星犯井鉞。

三月癸卯,填星犯東井。己巳,太白與月加景晝見。

五月壬寅,太白犯畢左股第一星。占曰:「畢為邊兵,又主刑罰。」

九月,涼州塞外胡阿畢師使侵犯諸國,西域校尉張就討之,斬首捕虜萬計。

其年七月甲寅,太白犯軒轅大星。占曰:「女主憂。」

景初元年,皇后毛氏崩。

青龍四年閏正月己巳=236年閏1月25日(西暦236年3月20日

※青龍四年三月は乙亥が朔日のため癸卯は存在せず。

青龍四年三月己巳=236年3月26日(西暦236年5月19日)

※青龍四年五月は乙亥が朔日のため壬寅は存在せず。

青龍四年七月甲寅=236年7月13日(西暦236年9月1日)

 

景初元年二月乙酉,月犯房第二星。占曰:「將軍有憂。」

其七月,司徒陳矯薨。

二年四月,司徒韓暨薨。

其七月辛卯,太白晝見,積二百八十餘日。時公孫文懿自立為燕王,署置百官,發兵距守,宣帝討滅之。

※青龍五年三月に景初元年四月に改元

景初元年二月乙酉(青龍五年二月乙酉)=237年2月17日(西暦237年3月31日)

景初元年七月辛卯=237年7月26日(西暦237年8月4日)

 

二年二月己丑,月犯心距星,又犯中央大星。

五月乙亥,月又犯心距星及中央大星。案占曰:「王者惡之。犯前星,太子有憂。」

三年正月,帝崩。太子立,卒見廢。

其年十月甲午,月犯箕。占曰:「將軍死。」

正始元年四月,車騎將軍黃權薨。

其閏十一月癸丑,月犯心中央大星。

※景初二年二月は壬戌が朔日のため己丑は存在せず。乙丑の誤りか。

景初二年二月乙丑=238年2月3日(西暦238年3月6日)

景初二年五月乙亥=238年4月15日(西暦238年5月15日)

景初二年十月甲午=238年10月6日(西暦238年10月1日)

景初二年閏十一月癸丑=238年11月26日(西暦238年12月19日)

 

次回は少帝 曹芳の正始年間より引き続き見ていきたい。

祭りの中の「三国志」

日本では古代から感謝や祈り、慰霊などのために神仏や祖先を祀る行為として祭りが執り行なわれてきた。今日では地域ごとに多様化した様式の「祭り」が伝わり、今日もまたどこかで行われている。

 

今回はそんな「祭り」の中に息づく「三国志」に注目したい。日本では『三国志演義』(李卓吾本)を翻訳した『通俗三国志』が江戸時代に刊行され、後にそれに挿絵を付けた『絵本通俗三国志』が登場した。それを機に日本では爆発的な人気を博し、広く読まれることとなった。

既に多くの先生方が論文や書籍などで述べられているように、歌舞伎や浄瑠璃、パロディ本、川柳などの最先端の流行にも「三国志」の要素が取り込まれ受容された。

もちろん「祭り」も例外ではない。例えば山車に乗る人形が三国志の人物であったり、山車に施される彫刻が三国志演義を題材にされていたりする。三国志がどのように受容されていたのか、また三国志の人物を当時の人はどのように捉えていたか…垣間見ることができよう。

 

前置きが少し長くなってしまったが、今回は現代に伝わる当時の人々の三国志「愛」がどのような形で残っているのか、以下に列挙していきたい。なお郷土資料にアクセスできないため、リストアップする程度にとどめる。

 

凡例

祭りの名称(開催日程)

三国志の見える山車など」(所有町村名)

 人形作成年:元号(西暦)

 人形作者:名前

※備考

 

とちぎ秋まつり(隔年11月中旬)

劉備玄徳」人形山車(万町一丁目)

 人形作成年:明治二十六年(1893)

 人形作者:三代目原舟月

 

関羽雲長」人形山車(万町二丁目)

 人形作成年:明治二十六年(1893)

 人形作者:三代目原舟月

 

張飛翼徳」人形山車(万町三丁目)

 人形作成年:明治二十六年(1893)

 人形作者:三代目原舟月

 

寄居秋まつり(例年11月第1日曜と前日の土曜)

関羽」人形山車(栄町)

 人形作成年:明治二十六年(1893)

 人形作者:初代原舟月

関羽人形は経年劣化のため、祭りの際は山車には乗せず寄居会館ホールにて展示される。

 

桶川祇園祭(例年7月15日~16日)

関羽人形」鉾山車(榮町)

 人形制作年:明治二十五年(1892)六月

 人形作者:松本喜三郎

※かつては山車に人形を載せていたが、大正十二年頃より電線などの接触を避けるため現在は山車から降ろされ祭期間中は会館にて展示される。山車に乗せていたこともあり、少しうつむき気味に作られる。

 

佐倉の秋祭り(10月三連休)

関羽」人形山車仲町

 人形制作年:不明

 人形作者:三代目原舟月

備考:明治十二年(1879)に人形を購入。

 

佐原の大祭秋祭り(例年10月第2土曜を中日とする金~日曜)

仁徳天皇」人形山車(南横宿)

 人形作成年:大正十四年(1925)

 人形作者:三代目安本亀八

※山車は明治八年(1875)創建。明治九年~十九年(1876~1886)の10年もの歳月をかけて彫り上げた「桃園結義」をはじめとする三国志の名場面の彫刻を有する。

 

ところざわまつり(10月第2日曜)

関羽周倉」人形山車御幸町

 人形制作年:江戸後期(文化~天保年間頃か)

 人形作者:二代目原 舟月

備考:かつて周倉人形は張飛と思われていた。5年に1度披露される。

 

塩尻祭り(毎年7月第2日曜と前日の土曜)

関羽」人形舞台(上町)

 人形制作年:天保三年(1832)

 人形作者:指物屋「久次郎」

※初代の舞台(山車)は江戸時代後期頃の作。老朽化などにより彫刻や飾り金具を残し、平成七年(1995)6月に復元。関羽人形は当初のもので2017年より1年の歳月をかけて修復修理。

 

城端曳山祭(例年5月4日~5日)

関羽周倉」人形曳山(大工町)

 人形制作年:寛政八年(1796)

 人形作者:荒木和助

備考:荒木和助が「主従二体様式」で作成。

 

新湊曳山まつり(例年10月1日~2日)

諸葛孔明」人形曳山(古新町)

 人形制作年:文政五年(1822)

 人形作者:辻丹甫(1722~1805)

 

関羽張飛」人形曳山(法土寺町)

 人形制作年:文政五年(1822)

 人形作者:辻丹甫(1722-1805)

※明治末期に劉備人形を欠き、現在の二体のみとなった。

 

越中八尾曳山祭(例年5月3日)

在原業平と供女」人形曳山(上新町)

 人形制作年:未明

 人形作者:未明

※富山2代目藩主前田正甫より雛人形を拝受。それを御神体として使用する。曳山の彫刻(大彫)に「関羽書を読むの図」(彫師:田村与八郎、彩色:永信斉藤原良得)、明治七年(1874)作を有する。

 

石動曳山祭(石動愛宕神社の春季祭礼)(例年4月29日)

関羽」人形曳山(北上野町)

 人形制作年:寛政十年(1798)

 人形作者:未明

 

氷見祇園祭(例年7月13日~14日)

「布袋和尚」人形曳山(御座町)

 人形制作年:未明

 人形作者:未明

※「布袋和尚」人形曳山の後屏(鏡板)に劉備関羽張飛像の彫刻を施す。

 

尾張西枇杷島まつり(例年6月第1土曜と翌日曜)

紅塵車(西六軒町)

 人形制作年:文政十年(1827)

 人形作者:三代目玉屋庄兵衛

※人形のからくりは「華陀の舞」と言います。大将の関羽が戦で毒矢を受け華陀と言う医者が治療をしている時、どこからともなく鳥が飛んできて舞いを舞い、痛みを和らげたという「三国志演義」の故事によるものです。

 山車の名の「紅塵」とは、「太陽に反射して塵があかね色に輝く様子、栄えた町に起こるチリ・ほこり」の意味で、町内がますます繁栄するようにと名付けられた、とのこと。関羽の顔が由来ではない。

 

尾張津島秋まつり(例年10月第1日曜と前日の土曜)

関羽」人形山車(上町)

 人形制作年:未明

 人形作者:未明

※大将座には中国三国時代の蜀の武将関羽。中山のからくりは小唐子が大唐子に肩車されて横棒にぶら下がり、お囃子に合わせて前回転したり後回転したりしてまた元に戻る動作をする。

 

半田春の山車祭り(乙川地区)(例年3月第3日曜と前日の土曜)

浅井山「宮本車」

安政六年(1859)建造、昭和二十五年(1950)に改造。壇箱には立川和四郎冨重 作「竹林の七賢人」の彫刻が、蹴込彫刻には初代彫常(新美常次郎)による「桃園結義」などの三国志の名場面計10種もの彫刻を有する。

 

南山「八幡車」

天保年間(1830~1844)建造。壇箱に初代彫常(新美常次郎)作「桃園の三傑」の彫常を有する。なお劉備は未確認。

 

半田春の山車祭り(亀崎潮干祭)(例年5月3日~4日)

田中組「神楽車」

※元禄~享保年間(1688~1736)創建。現在の山車は天保八年(1837)に再建。前山蟇股に「桃園結義」の彫刻が、脇障子には「阿斗を抱く趙雲張郃」の彫刻が施される。いずれも立川常蔵昌敬 作。

 

半田春の山車祭り(協和地区)(毎年4月第2日曜と前日の土曜)

砂子組「白山車」

※大正三年(1914)建造。脇障子には初代彫常(新美常次郎)の「関羽張飛」大正二年(1913)作を有する。また壇箱の彫刻は初代彫常(新美常次郎)の「三国志」されているが、樊噲がいることから題材は「鴻門之会」

 

大津祭(第2月曜の前前日土曜と翌日曜)

孔明祈水山(中堀町)

 人形制作年:享保五年(1748)頃か?

 人形作者:未明

※元禄七年(1694)創建、万延元年(1860年)に福聚山から現在の「孔明祈水山」へと名称を変更する。

 

日野祭(馬見岡綿向神社の春の例祭)(例年5月2日~3日)

蘭香閣 曳山(河原田町)

※創建宝暦年間(1751~1763)以前。元治元年(1864)再建。大工は清雲仁兵衛。平成六年(1994)に復元新調された見送り幕「三國志」は、劉備から届いた書簡を関羽張飛が拝読中の図が刺繍される。

 

亀岡祭(山鉾行事:例年10月23日~25日)

翁山鉾三宅町

※文政十二年(1829)再興。西陣大型綴錦の前懸幕には「桃園結義図」を描く。

 

射和祇園祭(例年7月中旬頃の土・日)

三栗組「関羽山」(中之町)

 人形制作年:安永九年(1780)~天明元年(1781)頃

 人形作者:未明

※中の人形は関羽張飛、とされているが、「張飛」人形が青龍刀を手にすることから、おそらく関羽周倉人形のように思われる。

 

天神祭り(毎年7月24日が宵宮、25日が本宮)

御迎え人形「関羽

 人形制作年:元禄頃

 人形作者:未明

※人形の題材は歌舞伎十八番『閏月仁景清』より。かつて船に高く人形を掲げて神霊を迎えた御迎え人形。当初は44体以上存在したが現在は15体を残すのみとなった。天神祭りの開催に伴い、7月1日~25日まで一部の人形を会場周辺の施設に特別展示される。

 

田辺祭(闘鶏神社例大祭)(例年7月24日~25日)

関羽・神宮皇后」笠鉾(片町)

 人形制作年:未明

 人形作者:未明

関羽人形は24日の宵宮に、神功皇后は25日の本祭に飾られる。

 

以上、23ヵ所の「祭り」をリストアップしてみた。時間を許す限り調べると他にもまだまだ見つかりそうである。

さて上述した「祭り」の会場と、その「祭り」で観ることが出来る「三国志」の画像を以下の地図に落とし込んでみた。もし興味がある方は参考にしていただければ幸いである。

それにしても改めて日本人は三国志が好き、ということを認識した。

drive.google.com

第13回三国志祭

2019年11月3日(日)に神戸市新長田地区で開催された「第13回三国志祭」および「六間道三国志祭」に参加してきました。今年も会場内に設けられた特設ステージではトークショー三国志を題材として演劇などが行われ、また三国志グッズや切り絵などをはじめとする物販のブースも複数出店され、今年は例年以上に国内外の英雄たちが集い会場が非常に賑わってました。写真は…すっかり夢中になってしまい撮り忘れてしまいました。

いつもは携帯やカメラを片手に会場の様子やステージイベント等を取るのですが、今回は数枚程度しか撮っておらず、自分でも驚くほど撮影をしていなかったです。

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今年も過密なスケジュールが設定されていましたが、今回は箱崎みどりさんのトークショー、竹内先生の三国志講座「孟獲をめぐって」、英傑ナイトに参加できたら…程度しか考えておらず、状況に応じて行動しようと予定していました。

会場に入ると関東の三国志仲間に、約5年ぶりにお会いする東海の三国志仲間と遭遇。積もる話をしながら三国志祭を一緒に満喫しました。

 

今回はブースを巡ったり、ステージを楽しむ時間的余裕はたくさんあったものの、三国志トークに夢中になりすぎてほとんど見れなかった事実に終わってから今気づき…せめてブースだけでも一通り回って挨拶をすればよかったと猛省。

ですが、箱崎さんのトークショー→横山『三国志』ビンゴ大会→三国志像巡り→中国武術演武会→三国志講座→小休憩→英傑ナイト→2次会、と当初の目的は全てこなせたので無問題でしょう。特に三国志仲間と濃厚すぎる楽しい時間を共に過ごせたのはとても代えがたいです。

 

毎年J:COM三国志祭を取材されており、今年はたまたま取材に応じたのですが、まさかがっつりと放送されるとは思いもしませんでした。ある意味いい思い出になりました。

 

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三国志仲間と一緒に。

 

今年の三国志祭にご参加されたみなさまお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

来年も参加したいです!

清河八郎が見た関羽

 

昨年、上の記事を作成した際に、伝承では足利尊氏とする箇所が『西遊草』では三代目将軍 足利義満の名で記されていたり、伝「関帝」像の脇侍二躯に関しても、関平関興ではなく、関平周倉と尊名が記されていることから、小山松 勝一郎 校注『西遊草』が誤ったものなのか、清河八郎がそのように記したのか疑問を抱いた。そのためオリジナルを確認する必要があったが、それを所蔵する清河八郎記念館(山形県東田川郡庄内町)には、時間の都合もありどうしても行くことが叶わず今日に至ってしまった。

 

そんな中、先日大変ありがたいことにオリジナルを目にする機会を得たので、大興寺の記述を確認することができた。関係者のみなさまにこの場を借りて心から感謝を申し上げます。この度はありがとうございました。

 

さて本題へ。

まずは大興寺に関する記述を改めて以下に翻刻する。なお変体仮名は平仮名に改め、句読点は補った。

清河八郎『西遊草』 巻六 安政二年(1855)六月十二日の条

田間の山園なる真如堂にいたる。(略)

また少し手前に芝薬師/あり。女人の中堂といひて古しへより名高/き本尊にて、叡山にありしに、終此所に帰/し、女人の叡山にいたらざる為に、此所にて/拝さする為とぞ。側仏ともに至て古物/なり。当寺に足利義満の所持せし元朝より/伝来の關羽及關平、周倉の木像あるゆへ、/開扉いたし見るに、關羽は床几にかかり、/両人は戈をたづさへ、左右の前に侍せり。/如何成ゆへにて、元より伝来せしや。住/持の僧留守にて、たしかならず。至て/古風のありさまなりき。

 清河は大興寺を訪れた際、理由は定かではないが足利尊氏ではなく「足利義満が元より像を取り寄せた」と知見を得たようである。また両脇侍についても「関平周倉」と尊名が記されていた。よって小山松本の誤りではないことを確認することが出来た。

 

両脇侍に関する記述は本島知辰(月堂)『月堂見聞集』にも見ることが出来る。

『月堂見聞集』巻十八 享保十一年(1726)三月三日

〇(享保十一年)三月三日より、東山眞如堂の内靈芝山大興寺本尊藥師、幷尊氏將軍所持關羽、關平、周倉之像開帳

ここでも尊名を「関平周倉」としている。このことから最低でも1726年~1855年までの約130年間は、関羽関平周倉として祀られていたことを傍証しているといえよう。

 

周倉関興に名が改められた時期は未明であるが、おそらくかなり時代が下ってからではないかと考える。平成25年度(2013)京都春季非公開文化財特別公開にあたり、調査が入っていると思われるのでそのタイミング頃が濃厚ではないだろうか…。

榛名神社と八斗島稲荷神社の彫刻をめぐって

今回は「北関東三国志ツアー」番外編!

 

これまで4回にわたりツアーで巡った群馬県内の寺社の「三国志」作品についてレポートを掲載した。どこにどのような作品があるのか整理すると次の表の通りである。もし行かれる方は参照していただければ幸いです。

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法水寺のみ伽藍神像(関帝像)を祀り、他3神社においては三国志演義を題材とした彫刻を有する。いずれも拝観料などはかからず鑑賞することができる。

さて、それぞれの神社において題材となった場面は少し異なるが、「趙雲救幼主」「張飛大鬧長坂橋」の彫刻が共通して採用されていることから、演義の中でも当時広く知られていた(人気が高かった)場面であり、加えて表現しやすかったため、採用されたのではないだろうか。

当時の三国志文化の一端を垣間見えたような気がする。

 

 

今回のツアーを通して(個人的に)非常に気になった点があった。それは榛名神社と八斗島稲荷神社の彫刻の人物達が非常に類似している箇所がいくつも見受けられた事である。

今回はその類似点について紹介したい。

 

 

まず初めに「三顧茅廬」の場面における関羽張飛像を見たい。

向かって左側が榛名神社 双龍門の胴羽目の関羽で、右側は八斗島稲荷神社の関羽である。比較のため後者の向きを左右反転した。

関羽の像容は幘を被り、細く吊り上がった目、片手で髯をしごくというお馴染みの姿で表されている。髯の流れ方や肩当ての形状とフリルのような装飾、さらに肩当て上に走る2本のライン、鬚をしごく手の袖口の形状や、腰に吊るす佩玉のようなアイテム*1とそれに連なる鎖状の装飾の形状などが酷似する。

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関羽(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)

 

続いては同場面における張飛である。こちらも比較のため前者を左右反転した。

張飛の表情は驚いたかのように口を開け、片手を前に出し、少し前傾の姿勢である。側頭部にの両者ともに目が丸く、髭が太く表されている。こちらも肩当ての形状とフリルのような装飾はもちろん、張飛が背負う刀状の武器の鞘には、背中から2本の紐が結び付けられており、やはり類似する点が複数見受けられる。 

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張飛(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)

 

今度は「張飛大鬧長坂橋」である。こちらの画像も向かって左側が榛名神社 双龍門の胴羽目の張飛像で、右側は八斗島稲荷神社 脇障子に施されている張飛像である。榛名神社文化財保護のためか全体を金網で覆われているため、非常に見にくいがあらかじめご了承いただきたい。

 

ここでの張飛は馬に跨り、蛇矛を突き立て大喝している様子が表されている。張飛の後ろから前方に向けて風が吹いているかように、彼の髭や髪の毛が流れる。また手綱を握る左手と左腕の位置、身に纏う鎧類の形状や装飾も酷似する。

馬は両者ともに右前足を軽く曲げた体制をしており、飾りの数は異なるが馬具も張飛と同様に一致する。

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大喝する張飛(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)

 

特に張飛の得物である蛇矛の穂先が目を引く。なぜか穂先が狼牙棒のようなスパイク状の形状をする。江戸時代以降、日本で登場した「三国志」作品において、蛇矛の穂先は直線的な槍状の刃や、トライデントのような三叉の刃が描かれている。このような狼牙棒状のものは『演義』はもちろん『絵本通俗三国志』をはじめとする「三国志」作品には見えない。我々がよく知る「穂先が曲がりくねった蛇矛」が日本で登場し定着したは比較的に遅く、1980年代初頭であると思われる。

このことについては以下の記事詳しく考察されているので参照されたい。

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蛇矛(左:榛名神社、右:八斗島稲荷神社)
左の動物の顔に耳があるので蛇ではなさそう…

 

今回人物を中心に3点の彫刻を比較し、類似点をいくつか挙げた。このことから1.一方の彫刻を模倣し作成された、2.共通する作品に倣い作成された、3.製作者が非常に親しい関係だったものと考える。

この張飛の特徴的な蛇矛を手掛かりに、制作するにあたり参考にされた「三国志」作品が存在しないか調べることにした。榛名神社 双龍門が竣工したのは安政二年(1855)、三国志ブームのきっかけとなった『絵本通俗三国志』の登場は天保七年(1836)~同十二年(1841)にかけて刊行されたので、期間は1836~1855年までと限定する。

 

 

管見の限りでは、完全に一致した形状を持つ蛇矛を確認することができなかった。しかしながら、それに近い蛇矛を3点見付けることができた。歌川国芳天保年間頃1831~1845)「通俗三國志英雄之壹人」、同じく歌川国芳(1852)「三国志長坂橋の圖」。少し設定した期間より時代が下るが月岡芳年(1872)「燕人張飛」である。

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歌川国芳「通俗三國志英雄之壹人」
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歌川国芳(1852)「三国志長坂橋の圖」
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月岡芳年(1872)「燕人張飛

 

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参考までに葛飾戴斗二世『絵本通俗三国志

 

 少し比べにくいため、それぞれの穂先だけ上から次の順で並べた。

榛名神社 双龍門

・八斗島稲荷神社

歌川国芳「通俗三國志英雄之壹人」

歌川国芳三国志長坂橋の圖」

月岡芳年(1872)「燕人張飛

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この中で唯一、天保年間(1831~1845)頃に描かれた歌川国芳「通俗三国志英雄之壹人」の穂先が、形状や時期が近く、もしかしたら制作する際に参照された可能性が考えられよう。浮世絵における穂先が複雑な形状をしているため、彫刻を作成するにあたりそれが簡略化、記号化されたのではないだろうか。いずれも肯定も否定もできる判断材料が乏しいため、今回は指摘するにとどめたい。

 

もしスパイク状の蛇矛を見掛けられた方はコメント等で教えていただけると嬉しいです!

 

【追記:2019年12月1日(日)】

7月末から「スパイク状の穂先の蛇矛」について、その由来を調べて見たものの、参照に用いられた作品を明らかにすることができなかった。大変ありがたいことに二階堂善弘先生より「『水滸伝』からの影響と考えればいいと考えます。(中略)たぶん、描いた側には手本があって、それが『水滸伝』のほうの絵だったと思います。ポーズとかが一緒で、そして、あとで中身を張飛にしただけでしょう。」と助言をいただきました。

挿絵付きの『水滸伝』作品を確認したところ、秦明が張飛と似た容姿をしていた。また「狼牙棒」を手にしており、この形状が例の蛇矛とも非常近い形状をしていた。よって秦明を参照に彫刻が作成された可能性が考えられるのではないだろうか。

*1:2019年9月1日開催の第38回 三国志研究会にて発表した際に「煙草入れではないか」という意見を頂戴しました。

八斗島稲荷神社

「北関東三国志ツアー」4箇所目。これまでは渋川市の寺社を巡ってきたが、今度は伊勢崎市八斗島町に場所を移す。当初は猿田彦神社の後に渋川市内にある喫茶店「しょっかつ珈琲」へ足を延ばす予定であったが、時間の都合により断念…

榛名神社から始まった三国志ツアーもついに最後となる。

八斗島と書いて「やったじま」と読む。八斗島町は利根川流域にある町で、元々は稗島という中洲であった。後に村に格上げとなり、開拓した里長である八斗兵衛宗澄の名より村名を八斗島と付けられたそうである。稲荷神社の由緒は次の様に伝わる。なお年号の表記や句読点は補った。

当社ハ天正年間(1573~1593)、今ヲ去ル四百余年前創立シテ、当時那波城主大江顕宗、奥州九戸戦争ノ際討死セシカバ、其ノ民境野主水正吉澄・五十嵐無兵衛知徳ノ両人、遺志ヲ奉ジテ、当国利根川中洲稗島ト云ウ所来ノ荒野ヲ開拓シテ田野トナシ、並ニ、五穀五柱ノ神ヲ勧請シテ祭祀ス本社即チ之也。

 又地名改メ八斗島ト云ヒ、吉澄ノ子八斗兵衛宗澄・知徳ノ子ト共ニ、其ノ志ヲ継ギテ耕耘鋓鋤ニ怠リナカリシカバ、衆人其ノ徳ヲ感ジ遠近ヨリ集リテ現今ノ如キ村落トナレリ。

 安政二年(1855)三月一五日、名主五十嵐八兵衛・組頭五十嵐善兵衛・仝境野半右エ門・仝五十嵐茂兵衛・仝黒沢弥右エ門・仝境野三郎右衛門等ノ協力ニ依リ上棟スルヤ、稲荷神社鎮座祭神・蒼稲荷魂命・大宮姫命・大田命・大己貴命保食命ノ神々ヲ祀リシモ、現在ノ本殿ハ元下福島八郎神社デ、間口一間奥行五尺ノ本殿ヲ、明治四十三年(1910)村社指定トナルヤ、豊武神社ト合併シ、同四十三年八月大洪水ノ為、戸数六二戸全村床上浸水シテ、県ヨリ見舞金トシテ金百圓也ヲ受ケ、其ノ金ニテ当時世話人小暮幸次郎・境野誉三・境野吉之助・氏子総代境野長太郎・境野仙三・境野誉三・五十嵐弘次郎・黒沢東馬・社掌荻野美恭・仝牛久保瓶哉ノ相談結果、右下福島本殿ヲ金六拾圓也ニテ買求メ残金ハ雑費トシテ、現在本殿ニ鎮座スルヤ軈テ当社ヲ稲荷社ト尊称シ其ノ徳ヲ表彰セリ。

 爾来遠近相伝ヘテ豊作ノ神トナシ賓者常ニ絶エズ、本社祭日ハ毎歳陰暦二月初午ノ日及九月二九日両日也。

 本社ハ木造作リニテ桁一五尺五寸、杉材三面作リニ破風造、向拝付茅葺一五坪二合二勺 宅地ハ三百七十坪ノ民有地デアル。

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由緒にあるように、明治四十二年(1909)に八郎神社(伊勢崎市福島町)が豊武神社(群馬県伊勢崎市大正町)へ合祀された。その翌年に起こった大洪水の見舞金を元手に、八郎神社の本殿を譲り受け、八斗島町の稲荷神社へ移築するに至ったようである。本殿移転の夜は「大風が吹き荒れ雷鳴が轟いた、という伝承が残る」と稲荷神社で作業をされていた町民の方に教えていただいた。

 

境内には鳥居と本殿があり、その周囲を身長ほどの高さの玉垣や柵で囲まれる。本殿脇には町の集会場を有す。八斗島稲荷神社の三国志はこの本殿に見える。本殿は東向きで、東側を除いた3方面の胴羽目と、左右の脇障子に三国志を題材にした作者不明の彫刻が施されている。最後の最期で、このツアーで散々悩まされた金網の呪縛からようやく解放された。

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参道より

 

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本殿

 

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まずは北側。「三顧茅廬」を題材にした彫刻が胴羽目に見える。言わずもがな、ここでは諸葛亮の廬を訪ねる劉備関羽張飛、彼らを迎える童子、そして右上の廬には昼寝(?)する諸葛亮が配される。

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昼寝をする諸葛亮。とてもかわいい!

 

続いて西側の後壁。こちらには左右の脇障子と胴羽目に三国志の彫刻が施されており、向かって左脇障子には劉禅を抱く趙雲が、胴羽目には趙雲を追う曹操軍の兵士である。こちらも定番の「趙雲救幼主」である。この兵士たちの中で騎乗する人物は、演義の内容からおそらく張郃ではないかと思われる。

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西側全景
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左脇障子。単騎駆けする趙雲
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胴羽目には趙雲を追う曹操軍の兵士たち

 

最後は西側向かって右脇障子には長坂橋の上で蛇矛を突き立て大喝する張飛が、また南側の胴羽目には張飛から逃げている曹操軍の兵士たち(?)が描かれる。「張飛大鬧長坂橋」である。曹操軍の兵士と思われる人物たちに特筆すべき特徴がなく、どれが誰なのか特定にはいたらなかった。馬に乗る人物は将軍クラスの人物ではないかと推測する。

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右脇障子には仁王立ちする張飛
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南側胴羽目。張飛から逃げる曹操軍の兵士たちか?

 

これらの彫刻には、木目などに塗料材の付着を見受けることができなかった。このことから彩色は施されていなかったものと思われる。

 

八斗島稲荷神社は少しアクセスしにくい位置に所在するが、本殿の彫刻はいずれも丁寧に作りこまれており非常に見応えあるものであった。

 

 

 

 

今回の「北関東三国志ツアー」では、三国志ファンにほとんど知られていない群馬県内の寺社の三国志作品を巡ってきた。全ての彫刻作品に共通することは、三国志演義の名場面を題材にしている、ということである。『絵本通俗三国志』の登場を機に江戸時代に爆発的な三国志ブームが起こった。そのためやはり劉備陣営の人気が非常に高く、どの作品も漏れなく劉備陣営が主体の場面が題材になっていた。当時の三国志受容の一端を垣間見ることができた。

 

狭い地域でこれだけ複数の作品が点在することから、群馬県には他にもこのような彫刻作品が人知れず眠っているのかもしれない。3回目の三国志ツアーの開催の実施に向けて、引き続き北関東地域の寺社を中心に三国志作品の探索を行いたい。

 

〒372-0827

群馬県伊勢崎市八斗島町1406

猿田彦神社

「北関東三国志ツアー」3箇所目。榛名山中腹の榛名神社伊香保温泉街よりすぐの法水寺と、これまでは多くの参拝者で賑わう寺社を巡ってきた。上越新幹線を東に越えて、今度はいわゆる町の神社とでも言えよう少し閑散とした猿田彦神社へ参詣することに。

 

猿田彦神社群馬県道 25号高崎渋川線と、同35号渋川東吾妻線の交差点より南東に1本入ったところに所在する。全てが巨大な法水寺と比較すると、猿田彦神社は非常にこじんまりと、先述したように閑散としている。25号線に参道入口を構え、「猿田彦神社」と彫られた社号標を有するが、玉垣などの社地と道路を区切るものは全くなく、加えて隣接する建設会社の社用車等が境内の端々に駐車されおり、どこからどこまでが境内なのか判然としない神社である。一般的に境内には寺社の由緒や歴史が記された案内板や看板などが設置されているが、そういった類のものもなく、創建時期や沿革をはじめとする一切が不明である。

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社号標

 

境内には南向きに構える本殿と、その前には鳥居を構える。それを正面に、向かって左手側には猿田彦大神と天宇受売命の石像が安置される社殿が、また右手には神楽殿を有する。毎年1月にこの神楽殿にて奉納される「大和神楽」は渋川市重要無形民俗文化財に指定されている。

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本殿と鳥居

 

さて猿田彦神社の「三国志」は本殿に見ることが出来る。本殿の東西の両側壁と北側の後壁には、漆喰で精緻な彫刻が施された幅およそ2m、高さおよそ60cmもの鏝絵(こてえ)計3点が施されている。文化財の保護のためか、ここでも榛名神社と同様に金網で全体が覆われる。

 

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本殿側面と憎き金網

 

まず西側部の側壁より見ていきたい。ここでは「張飛大鬧長坂橋」が題材にされており、中央には橋が、その右側には騎乗する張飛。そして左側には曹操軍の兵士4人が配される。張飛は丸い眼を大きく見開き、口を開けており、大喝する様子を表しているのではないか、と考える。横山『三国志』でお馴染みの緊箍児のようなものを頭に付ける。頬骨筋に沿って小鼻からこめかみにかけて、まるで隈取のような髭と鬚を蓄える。我々がイメージするような虎髭のようなヒゲではない。左手には蛇矛を持っていたと思われるが、左手首より先が逸しており形状は不明。また袴(?)には薄い青が見えるため、当時は非常に鮮やかな彩色されていたものと思われる。

一方曹操軍の兵士たちは足軽のような恰好に、まるでシャンプーハットのような形状の兜をかぶる。いずれも表情が豊かで、今にも動き出しそうな躍動感のあるポージングがされている。例えば木にぶつかりそうになったり、張飛に驚き転倒していたり、といった具合だ。

 

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西側全景

 

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大喝する張飛

 

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逃げる曹操軍兵士たち。表情や動きがとても豊か!

 

北側の後壁の鏝絵にうつる。左側の建物には1人の人物が、中央部右手には蓑笠に身を包む2人の人物が見える。まず前者の人物は横山『三国志』の孫権のような鬚をたくわえ、頭には葛巾をいただく。膝上には板状の何かが置かれ、それに両手が添えられる。この像容より琴を弾く諸葛亮と思われる。また中央部の2人は、西側の曹操軍の兵士たちと顔の造りや、鎧などの類似する点が複数見受けることができたため、おそらく劉備軍と敵対する曹操軍をはじめとする勢力の人物かと推測できる。このことより「空城計」が題材にされた場面だと推測する。

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北側全景

 

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琴を弾く諸葛亮

 

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司馬懿軍の間者



 最後は東側部。中央には鎧甲冑で身を包む騎兵と、それから逃げるような兵士たちが配される。騎兵の背面には後光のようなラインが描かれており、胸元には何か塊のようなモノが抱かれており、劉禅を抱く趙雲、つまり「趙雲救幼主」をモチーフにされた鏝絵であろう。

猿田彦神社の各鏝絵の中でもこの趙雲は特に日本化されており、鎧兜姿は日本の戦国武将を彷彿させる。また曹操軍の兵士たちの像容も含め、竹内真龍谷大学教授が主催される三国志研究会(全国版)において「鏝絵は劉備軍=日本の武者・英雄に、曹操軍=敵国人(おそらく中国)と置き換えて表されているのではないか」「雰囲気が元寇ぽい」という意見をいただいた。いつこの鏝絵が作成されたのか定かではないが、三国志を題材にした寺社彫刻と比較すると、猿田彦神社の鏝絵は非常に日本化された人物として仕上げられている、ということは特筆しておきたい。

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東側全景

 

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劉禅を抱く趙雲
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趙雲の馬に踏まれる曹操軍兵士

 

神社の概略について有益な情報は得ることが出来なかったが、非常に珍しい鏝絵を周囲の目を気にせず、ゆっくりと鑑賞をすることができた。少しアクセスはしにくいが、渋川市へ行かれる際は「しょっかつ珈琲」と合わせて足を運んではいかがだろうか。

 〒377-0007

群馬県渋川市石原754

臨済宗佛光山 法水寺(2)

「北関東三国志ツアー」2箇所目。榛名神社を阿斗もとい、あとにし続いては臨済宗佛光山 法水寺へ。

 今春作成した記事で法水寺の概要について記したので今回は省略する。

 

法水寺は榛名山東麓、渋川市の山間部の広大な土地に伽藍を構えており、伊香保温泉街より車で5分程度の非常にアクセスしやすい距離に位置する。広大といっても漠然としているため具体的に例えると、JR大阪駅がすっぽりと収まってしまうほどの広い敷地を有する。

 

法水寺の敷地に一歩入ると、色彩豊かなテカテカとした巨大な布袋尊が鎮座しており参拝者を迎える。嫌でも目に飛び込んでくる。
入り口から山門まではおよそ250メートルほどの石段の参道が延びており、高低差はおよそ40メートル。これだけでも日本の寺院ではまず考えられない規模である。この石段を上るだけで汗が噴き出る。夏場だと直射日光と照り返しで尋常ではないほど汗ばむことになるだろう…

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入口より見た法水寺

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異国情緒あふれるつややかな布袋尊

 

石段を上ると法水寺の全容をようやく目にすることが出来る。山門の大きさもデカいが、伽藍もやはりデカい。

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山門。やはりデカい。

 

伽藍は山門と、祇園樓、霊山楼、そして本堂で構成されているが、建物ごとに様々な施設や機能を有しており、複合施設のようになっている。祇園樓は写経堂・禅堂・歴史館が、霊山楼は山門事務所・一筆字ギャラリー、そして軽食を提供する御茶の間が、本堂は五観堂・展覧失・教室・大雄宝殿の機能を持つ。

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境内の案内図

 

法水寺は観光寺になっているためか、尼僧の方が快く迎えてくださり、しかも伽藍内を饒舌な日本語で丁寧に案内してくださる。カオスなスポットとしてイメージを抱いていたが拍子抜けしてしまった。

閑話休題。先の記事でも言及したように、法水寺の「三国志」は大雄宝殿で見ることが出来る。大雄宝殿は1000人以上をも収容できるキャパを誇っており、本尊には白玉を彫って作られた像高4.8メートルの巨大な純白の釈迦牟尼仏が祀られている。寺院の規模に見合ったサイズ感である。脇侍はいない。

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釈迦牟尼仏

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大雄宝殿内。だだっ広い

 

大雄宝殿入口すぐには「韋駄菩薩」として韋駄天像と対に「伽藍菩薩」として関帝像が置かれる。韋駄天および関帝像については以下の解説がされている。日本語が少しおかしいのは愛嬌ということで。

韋駄菩薩(韋駄天)

 身に甲冑を着け、合掌した両腕に宝杵を持ち、或は左手で宝杵を地面につきます。中国禅宗寺院では山門や本堂にまつられています。特に食事に関することを司るとされており、日本禅宗寺院では台所や食堂によくまつられています。また、こどもの病魔を除く神ともいわれてます。

 お釈迦様涅槃の後、捷疾鬼(しょうしつき)が仏舎利から歯を盗み去ったとき、此の神(韋駄菩薩)が追いかけて、取り戻したという説があることです。そこから足の速い人を韋駄天走り」というようになった。

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韋駄菩薩(韋駄天)像

 

伽藍菩薩

 昔、中国三国時代関羽武将です。

蜀漢劉備に仕え、武勇や義理に重んじたことです。また「忠義」の象徴として敬われました。神さまとしてまつられています。

 隋朝の時、ある日天台宗智者大師の説法に感銘を受け、それで大師のもとに帰依して仏法とお寺を守るように発願しました。それで智者大師は隋煬帝に奏して、関羽伽藍神に封じたという説があります

f:id:kyoudan:20190908130740j:plain伽藍菩薩(関帝)像

 

日本では伽藍神像は須弥壇上に、主に本尊の左右に達磨像と対に置かれることがほとんどである。繰り返しになるが先述したように関帝像は出入口近くに設けられた1.5メートルほどの高さの台に、韋駄天像と対に置かれている。関帝像の像高は1.3~1.4メートルほどで、韋駄天像もほぼ同様の像高であった。

関帝像は倚像ではなく立像。右手は左肩付近まで上げて髯をしごき、左手には青龍刀のような長柄の武器ではなく、指揮棒を左腰付近で握る。深緑色や金色を基調とした鮮やかに彩られた甲冑を、その上から袍に身をつつむ。

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持物は房が2本付いた指揮棒。かわいらしい。

 

関帝像が安置された時期や詳細を明らかにすることができなかった。やはり落成したタイミング(2018年4月21日)の直前頃に置かれたのではないかと考える。

日本の寺社や道観で祀られている関帝像で、これまで最も若かったのが東京「媽祖廟」2階に本尊として祀られている像(2016年4月13日将来)、次いで同じく東京「媽祖廟」2階の祭壇に配される像(2013年10月13日将来)であった。法水寺像が祀られ始めたことにより、その順位が更新され、この像が日本で最も若い関帝像になったと思われる。

 

 

〒377-0102 群馬県渋川市伊香保町伊香保673-43