張松について

毎月東京都港区の三国軒にて開催されている「三国志義兄弟の宴」。その第51回目の宴が2019年9月15日(日)に開催される。今回のテーマはまさかの張松!彼にスポットが当たるなんて思いもしなかった…

 

張松については「劉備の入蜀する前後のストーリーで活躍する人物」という程度でしか認識しておらず、これまで一度も掘り下げて考えたことがなかったこともあり、張松についてより理解を深めるために、また宴の予習として以下に記していきたい。

 

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張松劉備の入蜀の際に活躍した人物で、身体的にかなり個性的な特徴を有している。近年では「おそ松くん」に登場するイヤミを彷彿させるようなビジュアルで描かれることが増えてきている。さて張松について演義の次の一文が簡潔に表されている。訳は立間祥介『三国志演義』を参照にした。

劉璋視之。出進言者。益州成都人也。官帯益州別駕。姓張、名松、字永年。其人生得額钁頭尖,鼻偃齒露,身短不滿五尺,言語有若銅鐘。

演義』嘉靖本第119回「張永年反難楊脩」】

 

卻說那進計於劉璋者,乃益州別駕,姓張,名松,字永年。其人生得額钁頭尖,鼻偃齒露,身短不滿五尺,言語有若銅鐘。

【『演義』毛本第60回「張永年反難楊脩 龐士元議取西蜀」】

 

この時劉璋に献策したのは、益州の別駕、姓は張、名は松、字は永年である。この人、生まれつき顔が出て頭はとがり、鼻はひしゃげて歯が反りかえり、身長は五尺に満たず、声は銅の鐘のようであった。

 

史書における張松を見よう。『後漢書』では「劉焉袁術呂布列傳」、また『正史三國志』においては蜀書では「劉焉傳子璋」「先主傳」「法正傳」「黃權傳」「馬忠傳」、呉書では「吳主傳」に彼の名が見える。記述を統括すると1.対張魯の策として劉璋張松曹操のもとへ遣わすが、2.劉璋曹操ではなく劉備を頼ることを勧め、3.劉備に入蜀の手引きを行った、という。

 

張松の身体的描写については陳寿の本文ではなく、先主傳が引く『益部耆舊雜記』に触れられる。この箇所が「孟徳新書」のくだりのネタになったのであろう。

張肅有威儀,容貌甚偉。松為人短小,放蕩不治節操,然識達精果,有才幹。劉璋遣詣曹公,曹公不甚禮松;主簿楊脩深器之,白公辟松,公不納。脩以公所撰兵書示松,松飲宴之間一看便闇誦。脩以此益異之。

【『三國志』蜀書巻二「先主傳」引『益部耆舊雜記』

 

張松の兄の)張粛には威儀があり、容貌は甚だ雄偉であった。張松はひととなりは短小で、放蕩にして節操を治めず、しかし見識に達して果断であり、才幹があった。劉璋が遣って曹操に詣らせた処、曹操は甚だしくは礼遇しなかった。曹操の主簿楊脩が深くこれを器重し、曹操張松を辟すよう白したが、曹操は納れなかった。楊脩は曹操が撰述した兵書を張松に示した処、張松は宴飲の間に一たび看てたちまち闇誦した。楊脩はこれによって益々これを異とした。

 

正史では張松は「身長が低いく、性格には難がある」とする。演義にあるように「額钁頭尖」「鼻偃齒露」「言語有若銅鐘」ということではなさそうだ。記されていない=特筆すべき点ではないということもあるので、張松は平均的な容貌をしていたのではないだろうか。

 

さて演義に記述があり、正史にはない記述されていないことがもう一点ある。それは字である。演義では「永年」とあるが、正史にはそれが見えない。某百科事典やwebページに拠れば出典が明記されず「字は子喬、演義では永年」と記載されている。前者はどこに拠る情報なのか。

 

東晋の永和十一年(355)に常璩によって編纂された『華陽國志』附「益梁寧三州先漢以來士女目録」に次の記述が見えた。

 安南將軍張表字伯逺

成都人伯父肅廣漢太守兄松字子喬州牧劉璋别駕從事

 

安南将軍 張表 字は伯逺

成都の人。伯父張肅は肅廣漢太守。その兄は張松、字は子喬で州牧の劉璋别駕從事。

張松の字は「子喬」で、本貫は演義と同じく蜀郡成都県である。『演義』から張松を知り、加えて横山『三国志』をはじめとする三国志作品でも張松の字は永年で表記されていたため、そうだと思い疑ってこなかった。「益徳」「翼徳」と同様に歴史上では「子喬」、演義では「永年」とゆらぐことについて頭の片隅に入れておきたい次第である。

伝足利直義画「三国志」について

三国志ニュースの2019年8月13日(火)付の記事において、「足利直義筆(滋賀県米原市 清瀧寺徳源院)」と題する記事が更新された。タイトルの割には記事のほとんどが個人の日記的な記述が占めており、残念ながら肝心の「三国志」画に関してはたった数行程度しか、しかも漠然としか触れられていなかった。その記事の補足として以下に「三国志」画について記したい。

 

足利直義筆(滋賀県米原市 清瀧寺徳源院) - 三国志ニュース

 

 滋賀県米原市に所在する天台宗霊通山 清瀧寺徳源院(以下「徳源院」とする)は鎌倉時代から江戸時代まで栄え、北近江を支配した京極氏の菩提寺である。京極家初代の京極氏信が弘安六年(1283)に草創。境内には本堂、位牌殿、三重塔などを有する。その位牌堂に「足利直義画(尊氏の弟)三国志室町時代)」という手書きのプレートとともに、3人の人物が描かれた「三国志」画が公開されている。

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足利直義足利尊氏の異母弟で、徳治元年頃(1306?)から文和元年(1352)にかけて活躍した人物である。亀田先生の『観応の擾乱』(中公新書)が世間的に大流行していることもあり、その名前に聞き覚えがある方も多いのではないだろうか。この時代は演義がまだ成立しておらず、「三国志」といえばまだ正史しか将来していない時代である。

 

閑話休題。画の右下には幘を被り、赤ら顔でつり目の人物が、中央部には白い面の烏帽子のようなものを頂く人物が、そして左下には浅黒い顔で丸く大きな眼が特徴的な人物が描かれる。右下の人物の特徴より、これは関羽の持つ容姿と一致することから関羽と比定する。また関羽と共に描かれることがあり、上述の特徴を持つ人物と言えば劉備、そして張飛に限定されよう。よってこの「三国志」画は劉備関羽張飛を題材に描かれていると考える。

 

また画の右脇には「自笑齊藤原直義 畫」の署名と、その下に2つの落款(いずれも解読不明)が捺されている。徳源院 位牌堂の所蔵品のページにおいて「足利直義筆」という一文とともに画像が掲載されているが、厳密に言えば「筆」ではなく「足利直義画」もしくは「藤原直義 畫」である。

徳源院 位牌堂

 

足利直義は源姓であるが、藤原姓ではない。加えて「自笑斎」と号した記録が見つかっておらず、足利直義が作品時代がそもそも発見されていない。仮にこの「三国志」画が足利直義が描いたものとするならば、署名の後に落款ではなく花押が続くのではないだろうか。この画は南北朝期ではなくかなり後の時代に。直感的に江戸時代の作風のように見える。ではこの藤原直義という人物が足利直義ではないとするならば、一体は何者なのだろうか。

 

調べうる限りであるが、「花字柄鏡」を作成した松村稲葉守藤原直義、そして浄土真宗本願寺派龍口山 正順寺(広島県広島市)や同宗派十王山 明顕寺(広島県安芸郡海田町)の「梵鐘」を手掛けたと伝わる植木源兵衛藤原直義なる人物の2人が浮かんだ。

花字柄鏡|センチュリー文化財団 オンラインミュージアム

 

龍口山正順寺 | 浄土真宗本願寺派 龍口山正順寺

 

明顕寺の梵鐘 安芸郡海田町 - 通じゃのう

 

彼ら関して生没年や活動時期をはじめとする経歴などの情報は不明である。まず前者の藤原直義の「花字柄鏡」についてであるが、江戸時代作ということしか明らかになっていない。また後者の藤原直義の鐘は、正順寺鐘が享保五年(1720)作、明顕寺鐘が宝暦二年(1752)作と銘文に見える。いづれも江戸時代作であるが、彼らが同一人物なのか否かは定かではない。従って彼らと三国志」画を描いた藤原直義の関係も未明であるが、彼らのうち一方が描いた可能性を肯定や否定する判断材料がまだないため、言及するにとどめたい。

 

なぜこの「三国志」画が足利直義と結びついたのか。結論から述べると不明である。何らかの理由(例えばお寺の関係者がプレートを作ったタイミング等)において、署名の直義を誤って足利直義と同一視してしまったことにより紐付いてしまったのではいかと考える。

鄧艾と剣

鄧艾について調べていたら面白い記述があったので以下に。

 

梁代までの英雄が所有した名刀・名剣について記した陶弘景『古今刀剣録』。そこに鄧艾の「刀」に関する伝承が記されている。

原文は「漢籍レポジトリ」の『欽定四庫全書子部九の『古今刀劍錄』と「中國哲學書電子化計劃」に掲載する『太平御覧』兵部七十七 刀下を参照した。

Kanripo 漢籍リポジトリ : KR3h0083 古今刀劔錄-梁-陶弘景

太平御覽 : 兵部七十七 : 刀下 - 中國哲學書電子化計劃

 

鄧艾年十二、曾讀陳太丘碑。碑下掘得一刀、黑如漆、長三尺餘。刀上常有氣凄凄然、時人以為神物。

 

鄧艾は十二歳の時、(陳羣の祖父である)陳寔の碑を読んだ。碑の下を掘ると漆のように黒い三尺余りもの長さの刀を手に入れた。その刀から常にとても冷えた気が立ち上り、当時の人々は「神物」だと言った。

 

この陳寔の碑について『三國志』では次のように記す。

 年十二,隨母至潁川,讀故太丘長陳寔碑文,言「文為世範,行為士則」,艾遂自名範,字士則。

三國志』魏書二十八 鄧艾傳

 

十二歳の時、母親と潁川に行き、陳寔の碑を読んだ。そこに「文は世の範たり、行ないは士の則たり」と記されていた。そこで鄧艾は名を範、字を士則とした。

鄧艾は名と字をこの碑から採用したほど大きな感銘を受けたのであろう。刀が発する冷気を感じたのか、少し埋もれていた碑文を読むためなのか、掘った理由は定かではない。が、他人の碑の下を掘っている彼を母親は制止しなかったのだろうか…

 

さて何らかの縁があり鄧艾は「刀」を入手した。正史等ではそれは登場しないが、鄧艾とどのような運命を共にしたのであろうか。

ちくま『三国志』誤訳について

王必について調べていると、『三國志』魏書 武帝紀(建安二十三年条)に引く『三輔決錄』注において誤訳を見付けてしまったので、備忘録として記事に。

三輔決錄注曰:時有京兆金禕字德禕,自以世為漢臣,自日磾討莽何羅,忠誠顯著,名節累葉。覩漢祚將移,謂可季興,乃喟然發憤,遂與耿紀、韋晃、吉本、本子邈、邈弟穆等結謀。紀字季行,少有美名,為丞相掾,王甚敬異之,遷侍中,守少府。邈字文然,穆字思然,以禕慷慨有日磾之風,又與王必善,因以閒之,若殺必,欲挾天子以攻魏,南援劉備。時關羽彊盛,而王在鄴,留必典兵督許中事。文然等率雜人及家僮千餘人夜燒門攻必,禕遣人為內應,射必中肩。必不知攻者為誰,以素與禕善,走投禕,夜喚德禕,禕家不知是必,謂為文然等,錯應曰:「王長史已死乎?卿曹事立矣!」必乃更他路奔。一曰:必欲投禕,其帳下督謂必曰:「今日事竟知誰門而投入乎?」扶必奔南城。會天明,必猶在,文然等衆散,故敗。,必竟以創死。

https://ctext.org/text.pl?node=601875&searchu=%E5%BE%8C%E5%8D%81%E9%A4%98%E6%97%A5&searchmode=showall&if=gb#result

建安二十三年正月甲子(218年1月6日)に起こった吉本の乱に関する注である。 乱が起こりその中で王必の肩に矢が当たるが、厳匡とともに乱を鎮圧する。そして「10日あまりして、王必は矢傷が原因で亡くなった」のだが、問題となる一文(赤字箇所)ではちくま訳では「その後十四日たって、王必はけっきょく矢傷のために死んだ」とする。

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ちくま『三国志』は概要や出来事などの流れを把握するため等、利便性の高いツールではあるが、たまにとんでもない誤訳や誤った解釈での意訳がされている場合があるので、それに留意して取り扱うべきだと改めて感じた。

大興寺の関連資料の翻刻『山城名跡巡行志』第二

久々に大興寺に関する記述を掲載する資料『山城名跡巡行志』を見付けたので、今回はその翻刻を行う。

 

は宝暦四年(1754)に釈浄恵により山城国名跡の巡行を目的に記されたいわゆるガイドブックである。その第二「愛宕郡 二」に大興寺の項が設けられている。

翻刻するにあたり国文学研究資料館が公開するデータベースの『山城名跡巡行志』(大和文華館蔵)を用いた。なお句読点は補わない。

・山城名跡巡行志 第二(P.91)

 

 〇霊芝山 大興寺

 呼芝之薬師 在同(東北院)所 宗昔禅 川南向 本尊薬師佛運慶作 十二神同作

 

〇霊芝山 大興寺

これを芝薬師と呼ぶ。

東北院の東にあり。宗は昔は禅。川が南向きに、同じく堂があり。

本尊は運慶作の薬師仏。十二神像も同作。

當寺後鳥羽院勅願 命運慶模叡山中堂薬師仏令作安當寺 又有蜀ノ関羽像。源尊氏公景仰之。

 

当寺は後鳥羽院の勅願。運慶に命じて(比)叡山中堂の薬師仏を作らせ当寺に安ず。また蜀の関羽像あり。源(足利)尊氏がこれを景仰す。

當寺元在大宮五辻ニ 今云芝薬師町 中古移京極今出川元禄年亦移

 

当寺はもとは大宮五辻の南にあり。今は芝の薬師町と云う。いにしえに京極の今出川に移す。元禄年(1688~1704)にまたここに移す。

 

令和年間刊行の三国志関連書籍

2019年

5月

5月21日(火)

 渡邉義浩『漢帝国-400年の興亡』(中公新書2542)

  価格(税込み):950円

  出版社:中央公論新社

  ISBN:978-4121025425

 

5月24日(金)

 羅貫中,立間祥介(訳)『三国志演義(1)』(角川ソフィア文庫

  価格(税込み):1,598円

  出版社:KADOKAWA

  ISBN:978-4044005092

 羅貫中,立間祥介(訳)『三国志演義(2)』(角川ソフィア文庫

  価格(税込み):1,598円

  出版社:KADOKAWA

  ISBN:978-4044005108

 

 5月27日(月)

 『ユリイカ2019年6月号 特集=「三国志」の世界』

  価格(税込み):1,512円

  出版社:青土社

  ISBN:978-4791703678

 

6月

6月7日(金)

 きだまさし『三国志武将列伝~蜀の章~(2)』(少年チャンピオン・コミックス・エクストラ)

  価格(税込み):680円

  出版社:秋田書店

  ISBN:978-4253253123

 

6月8日(土)

  長野剛,玉神輝美(監修)『武将を描く 戦国・三国志+天使』

  価格(税込み):2,592円

  出版社:ホビージャパン

  ISBN:978-4798619521

 

6月10日(月)

 渡邉義浩『人事の三国志 変革期の人脈・人材登用・立身出世』(朝日選書)

  価格(税込み):1,620円

  出版社:朝日新聞出版

  ISBN:978-4022630841

 

6月19日(水)

 『歴史REAL 戦乱の100年がいっきにわかる!三国志の真実』

  価格(税込み):1,166円

  出版社:洋泉社

  ISBN:978-4800316950

 

6月20日(木)

 関尾史郎『三国志の考古学 出土資料からみた三国志三国時代』(東方選書52)

  価格(税込み):2,160円

  出版社:東方書店

  ISBN:978-4497219138

 

 本庄敬三国志メシ1』希望コミックス

  価格(税込み):1,080円

  出版社:潮出版社

  ISBN:978-4267906718

 

6月21日(金)

 渡邉義浩,仙石知子『三国志演義事典』

  価格(税込み):3,888円

  出版社:大修館書店

  ISBN:978-4469032154

 

6月22日(土)

 成君憶,漆嶋稔 訳『烈火三国志 上巻』

  価格(税込み):1,728円

  出版社:日本能率協会マネジメントセンター

  ISBN:978-4820731788

 成君憶,漆嶋稔 訳『烈火三国志 中巻』

  価格(税込み):1,728円

  出版社:日本能率協会マネジメントセンター

  ISBN:978-4820731795

 成君憶,漆嶋稔 訳『烈火三国志 下巻』

  価格(税込み):1,728円

  出版社:日本能率協会マネジメントセンター

  ISBN:978-4820731801

 

6月24日(月)

 エイ出版社編集部『新説!三国志

  価格(税込み):1,296円

  出版社:エイ出版社

  ISBN:978-4777955558

 『今こそ知りたい三国志

  価格(税込み):1,080円

  出版社:英和出版社

  ISBN:978-4865457186

 

6月25日(火)

 渡邉義浩『別冊NHK100分de名著 集中講義 三国志 正史の英雄たち』(教養・文化シリーズ)

  価格(税込み):972円

  出版社:NHK出版

  ISBN:978-4144072468

 

 『三国志 Three Kingdoms Unveiling the Story』

  価格(税込み):2,500円

  出版社:美術出版社

  ISBN:978-4568105148

 

 

7月

7月2日(火)

 『史実 三国志

  価格(税込み):1,188円

  出版社:宝島社

  ISBN:978-4800294913

 

7月5日(金)

 井波律子『キーワードで読む「三国志」』

  価格(税込み):850円

  出版社:潮出版社

  ISBN:978-4267021886

 

7月12日(金)

 酒見賢一 原作/諸織たばさ『泣き虫弱虫諸葛孔明(3)』(ビッグコミックス

  価格(税込み):638円

  出版社:小学館

  ISBN:978-4098603305

 

7月24日(水)

 渡邉義浩『眠れなくなるほど面白い 図解三国志

  価格(税込み):810円

  出版社:日本文芸社

  ISBN:978-4537217100

8月

 

9月

 

10月

 

11月

 

12月

 

臨済宗佛光山 法水寺

伊香保温泉で有名な群馬県渋川市。その県道15号線沿いに、国内では類を見ない超巨大な寺院が建立された。昨年2018年4月21日(土)に落成したその寺院の臨済宗佛光山 法水寺と言う。

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法水寺の航空写真。埼玉の聖天宮(地図右)と比較するとその巨大さは歴然である。

佛光山は台湾仏教の五座山の1つに数えられ(他の4つは法鼓山曹洞宗、慈済基金会:臨済宗中台山禅宗霊鷲山曹洞宗)、1967年5月16日に台湾・高雄市を総本山に星雲大師が開基した比較的にまだまだ若い宗派であるが、現在世界200ヶ所以上に寺院や道場などの施設があり、約300万人もの信者がいるそうだ。

日本へは1991年10月に星雲大師が来日し、佛光山の教えが将来したそうだ。

 

なぜ渋川市に台湾系の巨大寺院が創建されたのか。その理由のひとつに渋川市は「伊香保温泉を核とした外国人観光客誘致の促進と外国人観光客への対応力強化」を施策として掲げており、2017年10月31日には高雄市との友好協定が締結されていることから、長年に渡って親密な関係が構築されていたからだと思われる。

 

また以下の記事によれば法水寺は、2014年4月13日(日)に起工式が厳かに行われ、約4年もの歳月をかけて創建された。

インバウンド客の観光資源の役割があるが、本質的には佛光山の日本の総本山としての機能も担う。

 

さて法水寺の伽藍は山門と、祇園樓、霊山堂、そして本堂の大雄宝殿で構成されている。本尊には白玉を彫って作られた純白の釈迦牟尼仏が大雄宝殿に祀られており、像高はなんと4.8mもあるそうだ。その寺院の規模に劣らない巨大な像である。

また大雄宝殿内には韋駄天像とともに「伽藍菩薩」として関帝像も置く。像については以下のように解説をする。

伽藍菩薩

 昔、中国三国時代関羽武将です。

蜀漢劉備に仕え、武勇や義理に重んじたことです。また「忠義」の象徴として敬われました。神さまとしてまつられています。

 隋朝の時、ある日天台宗智者大師の説法に感銘を受け、それで大師のもとに帰依して仏法とお寺を守るように発願しました。それで智者大師は隋煬帝に奏して、関羽伽藍神に封じたという説があります

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少し日本語が怪しい箇所があるが、今日知られていることが記されている。後半の智者大師のくだりは二階堂善弘先生の「神となった関羽」に文章構成が近いが、それに拠って書かれたのであろうか。

この「伽藍菩薩」像こと関帝像はいつから安置されたのか、その時期や像の詳細は未明である。しかしながら落成したタイミング(2018年4月21日)までには置かれたハズである。

以前記事にしたように、2017年4月13日(木)に東京「媽祖廟」において、台湾より新たに関帝像が迎えられ、安置され始めた。そのため、もしかしたら東京「媽祖廟」像よりも置かれたタイミングが遅い可能性も否めない。法水寺の関帝像は日本で最も新しい関帝像の可能性も考えられる。

 

関帝像を置く寺院は黄檗宗寺院がほとんどであるが、先述したように法水寺は臨済宗である。現在認識している限りで関帝像を祀る臨済宗寺院は霊芝山 大興寺、景徳山 安国寺、そして直指山 単伝庵(らくがき寺)の3か寺しかない。そのため法水寺像は貴重な例になりそうだ。

一度、法水寺へ参詣しに行きたいとものである。

 

群馬県渋川市伊香保町伊香保673-43

 

 

【2019年9月8日(日)追記】

行ってきました!

柳成竜『記關王廟』翻刻

成龍(1542 - 1607年6月7日)は、李氏朝鮮の宣祖に仕えた宰相で、文禄・慶長の役に活躍した人物である。

 

さて今回は柳成龍『記關王廟』の翻刻を行う。原文を参照するにあたり早稲田大学の古典籍総合データベースにて公開されている崇禎六年(1633)跋の柳成竜『西厓先生文集(全二十巻)』を用いた。なお句読点などは補わない。

 

西厓先生文集. 巻之1-20 / 柳成竜 [撰](『西厓集』八 収録「西厓先生文集巻之十六」pp.61-62)

西厓集 文集20巻年譜3巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(pp.492-493)

記關王廟

余往年赴燕都自遼東至 帝京數千里名城大邑及閭閻衆盛處無不立廟宇以祀漢將壽亭侯關公至於人家亦私設畫像掛壁置香火其前飮食必祭凡有事必祈禱官員新赴任者齊宿謁廟甚肅虔余怪之問於人不獨北方爲然在在如此遍於天下云萬曆壬辰(1592)我國爲倭賊所侵國幾亡 天朝發兵救之連六七載未已丁酉(1597)冬天將合諸營兵進攻蔚山賊壘不利戊戌(1598)正月初四日退師有遊擊將軍陳寅力戰中賊丸載還漢都調病迺於所寓崇禮門外山麓創起廟堂一坐中設神像以奉關王諸將楊經理以下各出銀兩助其費我國亦以銀兩助之廟成 上亦往觀之余與備邊司諸僚隨 駕詣廟庭再拜其像塑土爲之面赤如重棗鳳目髯垂過腹左右塑二人持大劍侍立謂之關平周倉儼然如生自是諸將每出入參拜皆曰爲東國求神助卻賊五月十三日大祭廟中云是關王生日若有䨓風之異則神至矣是日天氣淸明午後黑雲四起大風自西北來䨓雨並作有頃而止衆人皆喜曰王神下臨矣旣而又於嶺南安東星州二邑建廟安東則斲石爲像星州土塑而星州甚著靈異之跡云未幾倭酋關白平秀吉死倭諸屯悉皆撤去此亦理之難測者也豈偶然耶昔苻堅入寇晉謝安以㫌節旗鼓禱於蔣子文廟謝玄以八萬偏師勝强秦六十萬如八公山草木風聲鶴唳說者皆以爲神助况關王以英雄剛大之氣其扶正討賊之志貫萬古如一日死而不滅安知無神應耶嗚呼烈哉京師廟前立二長竿懸兩旗一書協天大帝一書威震華夷字大如椽因風飄拂半空遠近皆仰而見之其帝號亦皇朝所追崇云可見其尊崇之至也

朝鮮において関羽を信仰する文化は壬申の乱を通じて、日本軍を撃退するために韓国へ派遣された明軍が持ち込んだものである、と言われている。ソウル東大門には関羽を祀る東大門が現存し、観光地とのひとつとして広く知られている。

さてこの史料に拠ると、萬曆壬辰すなわち万暦二十年(1592)より起こった文禄・慶長の役において、朝鮮での関王廟の創建と関羽信仰、そして関羽の霊験についてが記される。

要約すると日本軍に進攻されていた朝鮮軍は、嶺南の安東・星州(現慶尚北道安東市・星州郡)の地にて関王の廟を建立し関羽を祀ると、秀吉が死去し日本軍が全軍撤退した、というものである。

 

それを機に関羽は韓国内にて「国家を護る守護神」として認識され、関羽を信仰する文化が伝播し根付いたのであろうか。

東京「媽祖廟」再訪

2019年3月21日(木)に東京「媽祖廟」へ参詣してきた。最後にここへ来たのは2016年4月9日(金)なので、実に約3年前の振りの参詣である。

今回はお礼参りと、以前記事にしたように2017年4月13日(木)に廟内の諸像の配置替えが行われたが、実際にまだ目にできていなかったためその確認のための参詣の意味合いが強かった。

以下の記事で媽祖廟の由来などについて言及したため、今回は軽く像についてのみ紹介する。

 

 

まず配置替えが行われた理由について少し触れておきたい。2016年4月16日(日)は旧暦3月23日にあたり、この日は媽祖の誕生日を祝う「媽祖誕」が執り行われた。その準備のため、13日(木)に台北・行天武聖宮より師父を東京「媽祖廟」へ招き、その際に分霊された媽祖像(金面)や土地公像などの諸像を新たに迎えたようである。

そのためそれらを安置するために2階、3階の像の配置が大きく変更した、というのが一連の経緯である。分霊について台湾新聞がwebニュースで取り上げているため、もし興味があれば以下の記事を参照されたい。

 

行天武聖宮玄微師抵東京 為媽祖廟神明開光安座 | 台湾新聞 BLOG

行天武聖宮玄微師 為東京媽祖廟神明開光安座 | 台湾新聞 BLOG

東京媽祖廟提前為媽祖祝壽 武聖宮佛舞團獻舞 眾人讚嘆 | 台湾新聞 BLOG

 

廟内についてかつて記事でも述べたが、情報を補足して改めて以下にまとめたい。像の順は、須弥壇に向かって左からお祀りされている順に記す。

【1階】

 受付兼事務所:変化なし

 

【2階】名称:朝天宮→関帝殿

変更前:順風耳、媽祖(台湾・北港朝天宮)、千里眼

変更後:月下老人、福徳正神、関帝、済公禅師、武財神(趙公明

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f:id:kyoudan:20190326002328j:plain↑日本で最も若かった関帝像(2013年10月~)
↓現在最も若い関帝像(2017年3月~)f:id:kyoudan:20190326002345j:plain
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【3階】名称:本殿→媽祖殿

変更前:武財神(趙公明)、順風耳、媽祖(泉州・天后宮)、千里眼関帝

変更後:金面媽祖(台湾・南天宮)、粉面媽祖(泉州・天后宮)、黒面媽祖(台湾・北港朝天宮)、順風耳、千里眼、他小さい媽祖像が数躯

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【4階】名称:観音殿(変更なし)

※この階のみ像の配置変更なし

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また参拝順路も若干ではあるが一部変更があった。これまでは1階外の香炉→2階→3階→4階の順に線香をあげていたが、1階外の香炉→1階外「五營将軍」祠→2階→3階→4階の順となっていた。

 

新たに順路に追加された五營将軍について、媽祖廟のスタッフさん複数人に「どのような神様をお祀りしているのか」と伺ったところ、異口同音に「何の神様か分からない・知らない」というお返事をいただいた。メジャーな神仏ではないからなのか、それとも生活に深く溶け込んでしまっていてそこまで気にしたことがなかったのだろうか。

祠内は五営旗とともに、左より順に黒:趙元帥(趙公明)、白:馬元帥(華光大帝)、黄:中壇元帥(哪吒)、赤:康元帥、緑:雷振子の首を祀る。東西南北を祀る元帥神として「馬 趙 温 関」以外にも「温 康 馬 趙」などの組み合わせがあるのは有名であるが、そこに雷震子が加わるようになったのだろうか。

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これまで様々な国内の華光菩薩像を目にしてきたが、華光菩薩ではなく馬元帥(華光大帝)を見たのはここと聖天宮ぐらいだけ。仏教に取り込まれた華光の姿ばかり見てきたため、道教神としての華光を見るのは非常に新鮮に感じる。

 

また都内へ上京する機会があれば、また参詣しに行きたい所存である。

 

来月4月27日は媽祖誕を行うそうだ。台湾人コミュニティの方々が集うそうだが、もちろん日本人の参加も大歓迎だそうなので、もし拝観してみようとお考えの方は、そのタイミングに東京「媽祖廟」に行くことを強く勧めたい。

 

東京都新宿区百人町1丁目24−12

 

馬岱の字を考える2

思い付きです。

 

三年前に作成した上の記事において若干触れたが、馬岱の字が「伯瞻」とする説があり、その出典が『陜西省扶風縣郷土志』に見える、ということは一部の三国志ファンの間では知られている。陳寿三國志』や『三国志平話』、そして『三国志演義』各版本において、馬岱の字はいずれも記されていない。

しかしながら19世紀になり、長年不明であった馬岱の字が突如判明する。しかも諡も何故か明らかになっているのである。今回は字のみに焦点を当てる。

 

まずは嘉慶二十三年(1818)に刊行された『扶風県志』に見える馬岱の記述を見たい。

馬超字孟起、騰之子、兼資文武、勇烈過人。初在涼州、與曹操拒蒲阪、曹曰、馬兒不死、吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈、拜左將軍。卒諡威侯。

嘉慶二十三年(1818)刊『扶風県志』巻十一「人物」

馬岱については馬超の項に「馬超が従弟の馬岱とともに劉備に帰順した」と記される。

 

時代が少し下り、今度は光緒三十二年(1897)刊の『扶風県郷土志』の記述を見ると次のように馬岱について記す。

馬超字孟起、騰之子、兼資文武、勇烈過人。初在涼州、與曹操拒於蒲阪、操曰、馬兒不死、吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈、章武元年拜驃騎將軍領涼州牧封斄鄉侯。謚威侯。馬岱字伯瞻、騰之從子。蜀漢拜平北將軍、封陳倉侯、諡曰武侯。

光緒三十二年(1897)刊『扶風県郷土志』巻四「耆旧篇」

ベースとなる記述は先述した『扶風県志』に拠るものであるが、赤字箇所「馬岱、字は伯瞻といい、馬騰の甥である。蜀漢の平北將軍を拝し、陳倉侯に封ぜられる。武侯と諡された」が増補されている。この記述が馬岱の字は伯瞻とする典拠となっているのである。

正史を見ると、馬岱は実際に平北将軍に至り、陳倉侯に進爵したため、『扶風県郷土志』の記述は合致する。上述したように馬岱の字と諡は長年不明であり、ソースも明記されていないため、突如現れたこの情報は信憑性に欠ける。では「伯瞻」はどこから来たのであろうか。

 

清代に周學曾らによって編纂された泉州(現福建省 泉州市)の郷土志『晉江縣志』が「伯瞻」の来源ではないかと考える。

馬岱字伯瞻,江都人。成化二年進士,初任戶曹,識監精明。及知泉州,民有數世不葬者,岱諭以禮,旬月葬者千計。僧以尼為下院,岱罪其尤者,餘以配平民。內艱解任,行李蕭然。岱剛峭,好面折人過,不避權貴,多招怨憚,守正嫉邪,世人比於古矜。《閩書》。

『晉江縣志』巻三十二「封蔭志」

記述されている時代は専門外のため意訳はしないが、どうやら成化二年(1466年)に科挙の進士科に合格した江都出身の馬岱 字を伯瞻という人物が存在したようである。

『扶風県郷土志』を作成する上で各地の郷土志を参照し、たまたま『晉江縣志』目にした蜀漢馬岱と明代の馬岱を混合してしまい、蜀漢馬岱の字を伯瞻として記してしまったのではないかと妄想する。